第一次大戦中、食用の羊を連れて、フランスの田舎道を移動中のイギリス陸軍歩兵部隊。
土煙を上げて行進する一行の右手には、朝露に濡れて青々と輝く牧草地が広がっています。
歩いてます……ね。
ひつじ(ヒツジ、羊)のニュース、画像(写真)、グッズ、サイト、牧場などを紹介するひつじサイト。あなたの好きな羊もたぶん見つかります。
第一次大戦中、食用の羊を連れて、フランスの田舎道を移動中のイギリス陸軍歩兵部隊。
土煙を上げて行進する一行の右手には、朝露に濡れて青々と輝く牧草地が広がっています。
歩いてます……ね。
20世紀の初頭、ハンス・ハイセンは、オーストラリアの風景に関して、彼独自のアルカディア的ヴィジョンを創り出した。
(略)
ヨーロッパで学んでいる間に、ハイセンは、クロード・ロランとコローへの生涯にわたる称賛の念を培い、さらに、ミレーやバルビゾン派の画家たちの作品から影響を受けた。「オーストラリア絵画の200年 自然、人間、芸術」展図録
ハンス・ハイセンの「夕陽の方へ羊を追って」。トム・ロバーツやアーサー・ストリートンより、少しあとのオーストラリア絵画です。
見ての通り、約100匹近い羊の群れが謎の円陣を組んでぐるぐると回っているという衝撃の瞬間を撮影した写真です。一体どういう理由でこんな事になっているのか、謎の現象の秘密を追います。
この写真は、写真家のRussell Bird氏が撮影に成功したもの。一体何が起きてこんなことになったのか不思議に思い、見ていたところ、そのうちトラッカーに乗った農場経営者がやってきて、えさをやり始めてこのサークルは崩れたらしい。
あまりにも未知の現象だったので、羊の飼育に詳しい経験者などに聞いてみたところ、「羊用のえさを円陣に置いていただけではないか?」とのこと。
ぐるぐると回っているかどうかは分かりませんが、夢の光景といえましょう。
……国内の牧場でもどこかやってくれませんかね?
「滋養」という意味をもつことばのまま名づけられた料理が存在する。
それは、塩ゆでしただけのヒツジ肉である。
ヒツジ肉の塊をゆでたままの料理の正式名称は「シュース」であり、まさに滋養の塊を具現している。
「シュース」は結婚式などさまざまな宴会の場面で見かけることができる。
儀式用として、正しい盛り付け方が定められている。基本的には、ヒツジが生きていたときのように置くのが正しい。
右の腿は右に、左の腿は左に、そのうえに腰肉が載せられ、一番上に頭があるというわけで、いわば「姿づくり」ではある。
(略)
『元朝秘史』の巻一二において、チンギス・ハーンの第三子オゴデイが第二代ハーンに即位して治世方針を述べるなかで、駅伝制度について言及するくだりがある。
そこに、駅伝用の乗り継ぎ馬とともに、饗応用のヒツジなどを用意するようにという指示が記されている。
このシュースの語は、漢文文献では「首思」と音訳され、「祗応」と意訳されて登場する。
(略)
盛り付けられたヒツジ肉のなかでもっとも重視されるのは「オーツ」と呼ばれる腰から尻にかけての部分である。
オーツだけを盛り付けるときは、「シュース」とは呼ばれないものの、しきたりに適っていると見なされる。
ずいぶん以前にご紹介したモンゴルの羊料理オーツについて、小長谷有紀の「世界の食文化 (3) モンゴル」より、詳細を追加です。
こちらの本では、さらに、ヒツジ肉そのものについて、このような解説がなされています。
モンゴルの在来種ヒツジは、わたしたち日本人がもっとも慣れ親しんでみかけるような、羊毛を採取するために品種改良されてきたメリノ種ヒツジとちがって、春や秋に自然に大量に脱毛して生え変わり、自分自身で衣替えをしている。
そして、中央アジア原産のネギ類やニラ類を食べて、自分でハーブ添えをしている。
そして、一定の狭い場所に囲われていないので、臭い匂いも付かず、ストレスともおそらく無縁であろうと期待される。
動物として生きる環境全体がこのように確保されることによって、ヒツジ肉のうまさは保たれている。
なんというか、夢のような。
口縁にはパルメット文とロータス文が交互に配されている。
羊頭部は渦巻き状に表現される角、後ろに大きく伸びる耳など、器形にあわせて形式化されている。
動物前躯で先端を装飾するリュトンは、アケメネス朝に多く見られるが、その先駆とも考えられる。「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝」展図録
前7世紀後期、古代イランのリュトンです。長31.5?、径18.5?とのことですから、わりと大振りの杯ですね。
リュトンは、銀製のものと、陶器のものをご紹介しています。
タカワラビ。別名をヒツジシダ。
中国名は、金毛狗。英名は、Scythian lamb。学名は、Cibotium barometz。
ワタの木とともにあの植物羊伝説の一端を担う、羊似と噂の植物を見に、名古屋市は東山動植物園まで行って参りました。
これとかこれとかにタカワラビの気配を感じつつも、現物を見たことがなかったので、それはもう気になっていたのですよ。
さて、植物園に着きました。たぶん温室の中でしょうけれど、温室って言っても広いし……。
あっ、シダ室!? これか!?
ありました。
ふっ……ふかふかですよ、この根っこ部分! たしかに植物ばなれ(ってなに?)してます。
ただ、色合いとか毛の長さとかは、どちらかといえば、犬かも。中国名のほうがより適切?
日本でも、園芸店に出てるものには、「ゴールデンチャウチャウ」という名前がついてるらしいです。
さて、せっかくなので、隣接の動物園で本物の羊も見ていきましょう。
こども動物園のふれあい広場でエサをやれるはず……って、なぜ逃げるー。
まぁ、手洗い場に、たいへんツボに来るものがあったので、良しとしましょう。
といったところで。名古屋にご縁がありましたら、ぜひ東山にもお立ち寄りください。
第2巻 北方の驚くべき自然
第11章 グリーンランドのこびととフヴィートサルクの岩山
このグルントランディア〔グリーンランド〕(この名は《戦い》、あるいは見事な砂から名づけられたのか、それとも、外の説では、その緑色からグルントランディアと呼ばれた)の国の不思議について、しばしば人の語ること、つまり、この地の住民が鶴の大群と戦わなければならなかったことを、もしもプリニウスがその著書の第七巻、第二章でスキタイの人々に触れたところの文書や報告で同じことを述べているのでなかったら、たとえ尊敬に値する人々から耳にしたとしても、わたしはほとんど信じなかっただろう。
すなわち、前述の箇所で彼は言っている。《アストムの種族〔インドの伝説的な種族〕の住む彼方、山のはずれに、身長が三スピュータマ〔一スピュータマは二・三フィート〕、つまり三ドドラントを越えない小人族スピタマエイがいると言う。
山が北風をさえぎるため、常春の健康地に住むが、鶴に脅かされていることはホメーロスも報告している。
言い伝えでは住民は羊や山羊の背に乗り、矢で武装し、春には一団となって海岸に下りていき、鶴の卵と雛を始末する。
この遠征には三か月を要する。さもないと殖える鶴の群れに抵抗できない。
16世紀に著されたオラウス・マグヌスの「北方民族文化誌」から、小人族と鶴の戦いの場面です。
震旦韋慶植、殺女子成羊泣悲語(しんだんのゐのけいしょく、にょしのひつじとなれるをころしてなきかなしめること)
今昔(いまはむかし)、(略)韋ノ慶植ト云フ人有ケリ。一人ノ女子有リ。其ノ形チ美麗也。而ルニ、幼クシテ死ヌ。父母、此ヲ惜ミ悲ム事無限(かぎりな)シ。
其ノ後、二年許ヲ経テ、慶植、遠キ所ヘ行ムト為(す)ルニ、親シキ一家ノ類親等ヲ集メテ、遠キ所ヘ可行(ゆくべ)キ由を告グ。
食ヲ儲ケテ、此等ニ備エムト為ルニ、家ノ人、市ニ行テ、一ノ羊ヲ買ヒ取テ持来レリ。殺テ此レニ備ヘムトス。
其ノ母、前ノ夜ノ夢ニ、死ニシ娘、(略)「今、羊ノ身ヲ受タリ。来(きたり)テ其ノ報ヲ償ハムガ為ニ、明日ニ来テ被殺(ころさ)レムトス。願クハ母、我ガ命ヲ免(ゆる)シ給ヘ」ト云フト見テ、夢覚ヌ。哀レニ思フ事無限シ。
今昔物語集、巻第九 震旦付孝養第一八話、「震旦韋慶植、殺女子成羊泣悲語」です。
親不孝のために羊に転生してしまった娘が、あろうことか、かつての両親の台所に買われてきてしまいます。娘は母の夢枕に立って訴え、母は羊を助けようとするのですが、すれ違いが重なり、という悲劇。
これだけだと救いが無くてどうも、という感じなのですが、これに続く第一九話「震旦長安人女子、死成羊告客語」は、途中まではよく似たお話なのですが、最後に助かって寺に送られます。良かった……のかな?
ちなみに、震旦というのは中国のこと。
幸せな羊飼いのうた
アルカディの森は死に絶えた
往にし日の森の愉悦はすでにない
(略)
わしも消えねばならぬ 黄すいせん
ゆり花の咲きゆらぐあたりに墓がある
ねむたげな大地の下に埋もれたままの
不運な野神フォーンを陽気なうたで
夜の明けぬ間を楽しませてやりたい
※注(訳者)
ギリシア・ローマ時代から、チョーサーやスペンサーなどを通して受けつがれてきた牧歌詩の伝統も、いまやアルカディの森や夢とともに失われんとする時代の潮にたいして、イェイツの審美的理念が表明される。
W・B・イェイツの詩集「十字路」より、「幸せな羊飼いのうた」です。
訳注の中にある牧歌詩の伝統については、スペンサーの「羊飼の暦」とウェルギリウスの「牧歌」をご紹介しています。
あと、この詩は、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の献辞にも使われてますね。
三日月が姿を見せるが、まだかなり明るい夏の夕暮れ、羊飼いが群れとともに移動する情景を彼方にとらえたこの作品は、1885年のサロンに《夏の夕べ》として出品された。
自然のサイクルとともに生きる羊飼いをミレーは英雄的に描き出したが、この作品ではむしろかれらは風景の中に完全にとけ込んでしまっている。「ゴッホ、ミレーとバルビゾンの画家たち」展図録
19世紀フランスのルイ=エメ・ジャピーによる、「羊を連れ帰る羊飼い」です。なんともあわあわとした羊たちですが、これはこれで実に。
解説にあるミレーの英雄的な羊飼いについては、こちらやこちらで。
ひとりは羊の毛を刈り、もうひとりは豚の毛を刈る
レンガの壁の前で、エンジ色の上衣の男が無心に鋏で羊の毛を刈り、もうひとりの黒い服の男が、豚の毛を刈りながら、羨ましそうに仲間を見ている。
この諺は、同じことをしながら、ひとりは有利で、他は不利になること、ひとりはいつも豊かであり、他は貧しい、という意味である。
ピーテル・ブリューゲルの「ネーデルラントの諺」です。
数多くの(こちらの「ブリューゲルの諺の世界」では、85の諺が吟味されています)諺がひとつの画面に描き出されているのですが、前景やや左に羊がいます。
「ひとりは羊の毛を刈り、もうひとりは豚の毛を刈る」という諺を絵にしたもののようですね。
ブリューゲルは、「人間嫌い」と「イカロスの墜落のある風景」をご紹介しています。
半ば植物、半ば羊というこの存在は「ボナレッツ」とか「ボラメッツ」と呼ばれて、プロテスタント詩人ギヨーム・サリュスト・デュ・バルタスによって文学の分野に導入される。
(略)
根は臍につながっていて、周りに伸びる草を喰ってしまった
その日のうちに死んでしまうのだ。
ああ、神の右手の驚嘆すべき成果よ!
植物が肉と血をもち、動物が根をもつ。
(略)
(デュ・バルタス『第二聖週間』「第一日、第一巻、エデンの園」、第515―524行)
デュ・バルタスが1578年に『聖週間あるいは世界の創造』を上梓してから、1581年にはプロテスタント牧師シモン・グーラールの厖大な註釈付きで改訂版が出版されるなどして、このおよそ6500行におよぶ長編詩は大きな成功を収めたのだった。
(略)
それの続編として1584年に出版されたのが右に引用した『第二聖週間』であり、これについてもグーラールは1589年に詳しい註釈を世に送ったし、デュ・バルタスの死後一年経った1591年には言語学者クロード・デュレも『第二聖週間』の「エデンの園」の巻だけの註釈を発表した。
そのグーラールがデュ・バルタス言うところのボナレッツを説明するに際して、その典拠を明らかにしている。
それは1549年にウィーンでフェルディナント皇帝に献呈されたジークムント・フライヘル・フォン・ヘルバーシュタインの『モスクワ公国事情解説』である。
(略)
この植物動物には血があって肉は皆無である。
でも肉の代わりになにかしらザリガニの身に似たものを具えている。
(略)
その根は臍ないし腹の中央についている。
自分の周りにある草を喰い、草が続くかぎり生きている。
(略)
『第二聖週間』の註釈を公刊したクロード・デュレも『驚嘆すべき植物草本の驚異譚』(1605)の第29章でヘルバーシュタインの伝える話を採り上げながら、マンデヴィルやスカリジェールやカルダーノやギヨーム・ポステルなどが「ボラメッツ」について触れたと指摘している。
伊藤進「怪物のルネサンス」から、植物羊の解説を引いてみました。
植物羊には、オドリコ 「東洋旅行記」やマンデヴィル「東方旅行記」のような羊が莢に入っているものと、ヘルバーシュタインやデュ・バルタスやクロード・デュレの言う臍からのびた茎で地面につながっているものの二種類があるようです。こちらでご確認ください。左がマンデヴィル「東方旅行記」、右がクロード・デュレ「驚嘆すべき植物草本の驚異譚」からのものです。
あと、関係があるのかないのか、たぶん無いと思うんですが、「本草綱目」の地生羊は、臍でつながってるようですね。
北の国の動物たちをモチーフにしたかわいいスタンプです!
デスクまわりの木製雑貨
飾って置きたくなるロッキングスタンプです
ひつじはかわいいりんご柄です
スタンプはひつじ柄ではないですがひつじスタンプ。揺れてみますか? |
愛らしいまなざし、スラッと伸びた足でスタイルのいいかわいいヒツジさんです。ボディ部分はふわっとしたウールの毛並み、足とお顔は短くカットしたしゃりっとした手触りの毛並みになっており、丁寧に細かく制作されています。また足は少しでしたら動かすことが可能ですので、きちんと自立させることができます。
あし長っ。なシュタイフひつじです。 |
サイズ 250×410×222mm(パッケージサイズ 255×390×20mm)
ちょっとだけエコで地球に優しいレジ袋ヒツジ。 |
サイズ バッグ/305×290mm・ポーチ/120×120mm(パッケージサイズ 125×190×20mm)
こちらもレジ袋として使えるバッグ。やっぱりひつじですよね。 |
この時期に彼は最も美しい作品を制作したのだった。
1856年から57年にかけて『夜の欄の中の羊飼い』と『日没に羊を連れ帰る羊飼い』と『立って杖に寄りかかる牛飼い』との連作を描いた。
彼は物思いに沈む農夫や牧人などという、田舎の人物の中でも神秘的な姿や、一日の終りにあたって、草地の靄や羊の群れから発する温い蒸気が空中にただよう夜、冷たい月光を浴びて深く眠っている大きな牧場や広い野などの詩的な静寂さに、心を引かれていたのであった。
このように彼が「牧人」を好んで描いた結果、それまで彼が人物のために犠牲にしていた風景に、おのずから作品の中で大きな位置を占めさせるようになった。
ロマン・ロランによるジャン=フランソワ・ミレーの伝記から。
「この時期」というのは、あまりの貧困と薄倖に自殺さえ考えたという、ミレーの最も苦しい時期を指すのですが、そうした中で描かれた一枚として、以前ご紹介した「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」があるようです。
なお、ミレーの「牧人」に対する興味については、アルフレッド・サンスィエの「ミレーの生涯」をご紹介したときにお話したことがあります。
ひつじちゃんとなわとびで遊ぼう!連続ジャンプで高得点を目指し、邪魔な狼をキックで撃退しよう!
昨日に引き続きひつじちゃんゲームシリーズです。
ヒツジと飛んだり、狼蹴ったり。パズルが苦手な人はこちらのほうがいいのかも。ぼーっとやりましょう。
……ヒツジ蹴っちゃダメですよ?