肉袒牽羊(にくたんけんよう)
宣公一二年
(略)
楚はふたたび軍を進めて鄭を包囲し、三ヶ月でこれを攻略した。
楚軍が皇門から入城して大通りに達すると、鄭伯(襄公)は肌脱ぎとなり、羊を牽いてこれを迎えて述べた。
「孤(わたくし)は天意を無視し、貴君に奉仕する能わず、貴君を怒らせて、わがくににお出でいただきしこと、ひとえに孤の罪なれば、いかなる仰せにも従いまつります。(略)」
王の近臣は、「許してはなりません。一国を手に入れるのに赦す必要はありません」と言ったが、王は、
「あの国君は、あれだけ人に謙虚になれるのだから、必ず自国の民に信をもって接している。まだ望みがある」
と、三十里退いて、鄭との講和を許した。
降伏し服従するさまを意味する、「肉袒牽羊」という故事成語の由来です。
中国の春秋時代、楚に敗れた小国の鄭は、鄭伯の「肉袒牽羊」によって滅亡からまぬがれます。羊を牽くのは、相手の料理人になって仕える、という意志を示すものなのだとか。
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