中華料理の文化史
羊肉の勢力拡大はいくつかの段階を経てきた。
考古学の発掘の結果によると、新石器時代の遺跡から出土した獣骨のなかで、もっとも多いのは豚、その次は羊、牛、犬となっている。
(略)
六朝になると、羊肉の方がしだいに多く食べられるようになった。
『斉民要術』に出てくる家畜類の加工および調理の用例数を見ると、一位が豚であることには変わりはない。
しかし、豚の調理例が三十七例に対し、羊は三十一例。羊肉は豚肉とほぼ互角で、三位の牛を大きく引き離している。
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北方中国では「古くから羊が最上のものとされ、豚は下等品であった」と言われるが、いつからそうなったのかはこれまで明らかにされていない。
遊牧民族である匈奴族の南下はひとつの遠因であろう。
『後漢書』巻八十九「南匈奴伝」によると、紀元一世紀から二世紀のあいだ、匈奴人は数万人から数十万人の単位で南の方に入植した。魏晋以降になると、牧畜が盛んな突厥族の影響もまた大きかった。
(略)
十一世紀から十二世紀初頭にかけての中原における羊肉文化の定着にはもうひとつの重要な理由がある。
916年、中国の北部で契丹国が樹立され、約三十年後の947年に国号を遼と改めた。(略)
その間、契丹族の人たちがたえず勝者として南に進出し、彼らの風俗習慣を中原に持ち込んだ。
契丹族はもともと遊牧民で、(略)政権内には牧畜専門の役職を多数設けていた。(略)
正月一日には白い羊の骨髄の脂を糯米の飯にまぜあわせ、こぶしぐらいに丸くにぎった儀礼食がある。冬至の日には白い羊、白い馬、白い雁を殺し、その血を酒に入れる。
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1114年、金が遼を破り、(略)中国の北方地域で女真族の政権が樹立した。(略)
女真族が中原に入ったとき、豚肉と羊肉はすでに地位が逆転していた。
黄河中、下流地域への移住にともない、支配民族である彼らもしだいに羊肉を多く口にした。
(略)
一方、宋が金に破れ、都を杭州に移した。
政権の転移とともに、大量の住民が北方から長江下流地域に移り住むようになった。
それにともない、羊肉を食べる習慣はさらに南下した。
南宋の都・杭州の日常生活を記録した『武林旧事』巻六「市食」には羊の脂肪でこねたニラパンや羊の血で作った料理がある。
中華料理の歴史を概観できる「中華料理の文化史」より、「羊肉vs豚肉」と題された一章を。遊牧民の食文化であった羊肉食が南進していくさまが、わかりやすく解説されています。
金や南宋の羊肉食については、「山家清供」や厨娘、女真族の全羊席などのお話をしています。
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