幕末と西洋料理。
開国前夜の西洋料理─ペリー主催の饗宴
アメリカ側全権の東インド艦隊司令長官マシュー・C・ペリーは日米和親条約の調印日を前にした2月29日、自分たちの主張がほぼ盛り込まれる見込みがついたとして、ポーハタン号に日本側の関係者を招いて大饗宴を催した。
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コックは甲板で飼育されてきた牛、羊、鶏をはじめ、ハムなどの貯蔵肉、魚、野菜、果物などを惜しみなく使って極上の料理を用意した。
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ただしどれだけの日本人が味わいながら食べていたのかは疑問である。
現にアメリカ人記者も日本人が積極的に料理を口にしたのは、旨いからというより、物珍しさや好奇心によるものと見ており、その証拠に日本人たちがテーブルに運ばれてくる料理や果物などについて一つずつ、その名前を知りたがり、全部味見をしたことからも明らかだとしている。
太平洋を渡った170名
和親条約に続き、通商条約の交渉が始まり、それが締結された後に初めて幕府の使節団が海を渡ったのである。
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艦内での食事は朝8時と午後2時の2回と決められていた。
医師の村山伯元(31歳)は出港直後の食事内容を次のように記している。
「1月19日、羊肉・雉子、ジャガタラ芋煮つけ、米国の酒、飯は邦米なり、茶は砂糖を入、味殊によし」(『奉使日録』)
その後の使節団
徳川昭武が兄の将軍・慶喜の名代としてパリ万博開会式に出席するため、随員28名を伴い、横浜を発ったのは慶応3年1月11日である。
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随行した渋沢篤太夫(のちの栄一)が食事内容を細かく書き留めている。
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「同10時頃にいたり、朝餐を食せしむ。器械すべて陶皿へ銀匙、並銀鉾、包丁等を添へ、菓子、蜜柑、葡萄、梨子、枇杷、其の他数種、盤上に羅列し、随意に裁制し、食せしめ、又葡萄酒へ水を和して飲しめ、魚、鳥、豚、牛、牝羊等の肉を烹熟し、或は炙熟し、パンは一食に二、三片適宜に任す。」
以前、オールコックの「大君の都」で、幕末の日本にやってきて、羊肉を手に入れられずに苦しむ西洋人の様子をご紹介したのですが、では初めて羊肉料理と出会った日本人たちはどんな反応を示したのだろうと、「拙者は食えん!―サムライ洋食事始」を見てみました。
タイトル通りに「食えん!」となったエピソードも山盛りでしたが、意外に屈託のない人たちの姿も目立ちます。
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