フェルディナント・ボル 「アブラハムの犠牲」

ひつじ話

「アブラハムの犠牲」 「アブラハムの犠牲」(部分)
ドルドレヒト出身のボルは、レンブラントの比較的初期の弟子のひとりである。
(略)
本作品はボルの比較的初期に属すもので、1646年のものと考えられる。
ボルの作品の中でも、最も直接的にレンブラントの影響が見られる作品である。
「アブラハムの犠牲」は、レンブラントの周辺でしばしば描かれた主題である。
無論、本作品に直接の想を与えたのは、レンブラントの同主題である。

 「レンブラントとレンブラント派―聖書、神話、物語」展カタログ 

レンブラント・ファン・レインの弟子であるフェルディナント・ボルの「アブラハムの犠牲」(「イサクの犠牲」)です。
以前レンブラント工房の「イサクの犠牲」をご紹介してるのですが、そちらを描いた可能性が高い弟子として、このボルが挙げられているようです。
というわけで、せっかくなので、羊はいませんが、レンブラント自身の「イサクの犠牲」も下に。

レンブラント「イサクの犠牲」

「イサクの犠牲」テーマについては、こちらで。
レンブラントの弟子つながりで、アールト・デ・ヘルデル「神殿の入口」も。

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サン・ピエル・マッジョーレ教会祭壇画(部分)

ひつじ話

「聖母戴冠」 「聖母戴冠」(部分)
ヤコポ・ディ・チオーネの作だとされる「聖母戴冠」は、14世紀後半に崇拝されていた聖人たちの驚くべき百科全書である。
はっきりと見分けられるように、聖人たちは画面の「背景」にではなく、「前」に配置されており、ほとんど平面的に並んでいる。
聖人たちの顔はみな似ているから、同定は衣服やアトリビュートによる。

フィレンツェのサン・ピエル・マッジョーレ教会に描かれ、現在はロンドンのナショナル・ギャラリーにおさめられる大祭壇画から。右端に子羊を抱いた聖アグネスが。
これまでにご紹介したことのある聖アグネスは、こちらで。

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『ベリー侯の豪華時祷書』より「羊飼いへの告知」

ひつじ話

「ベリー侯の豪華時祷書」 「ベリー侯の豪華時祷書」(部分)
14世紀以来、時祷書の装飾画の一連には、牧夫たちにイエスの降誕を知らせる「羊飼いへの告知」の場面が加えられることが伝統となっていた。
(略)
棒状のものは、ウレット houlette と呼ばれる羊飼い独特の杖で先がシャベル状になっている。
それでさくれや小石をすくい投げて、群れを離れる羊に注意をうながす。
時には、狼や野犬から羊を守る武器にもなる。
彼らの羊の群れには、背中に所有者を示す赤や青のしるしが付けられているのもリアルである。

先日、レンブラントの版画で「羊飼いへのお告げ」をご紹介したところですが、同じテーマでもうひとつ、時祷書の装飾画を。
2月の情景占星学的人体図などをご紹介している「ベリー侯の豪華時祷書」より、「羊飼いへの告知」です。
時祷書は、このほか、「ワーンクリフの時祷書」「エティエンヌ・シュヴァリエの時祷書」などをご紹介しています。

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クロイスターズの十字架(続き)

ひつじ話

さらに驚くことにエレミヤは、十字架上の明らかにユダヤ人と思われる生身の人物にたいして攻撃を加えていた。
彼の二番目の巻物はまるで武器のように左方やや離れたところに立つ哀れな女性に直接突きつけられていたのである。
この女性が手にした謎めいた巻物の maledictus 「詛われし者」は前に読んだ記憶がある。
彼女は頭巾をかぶり、頭を垂れて両眼を閉じ、まるで盲目のようだった。
彼女は一本の槍を片手に、神の子羊の胸元を刺し貫こうとしていた。
フラウ・メルスマンはこれをユダヤ教会(シナゴーグ)の擬人化だろうと解釈していた。

先日ご紹介した、クロイスターズ美術館の祭壇用十字架に関して、この美術品を館の所蔵品とするために活躍した、後のメトロポリタン館長トマス・ホーヴィングのノンフィクション「謎の十字架」から。
この壮麗な十字架に惚れ込み、買い取りのための調査をすすめるうちに、その反ユダヤ的傾向に気づいて戸惑う場面です。

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レンブラント 「羊飼へのお告げ」

ひつじ話

「羊飼へのお告げ」 「羊飼へのお告げ」(部分)

 「レンブラントとレンブラント派―聖書、神話、物語」展カタログ 

レンブラント・ファン・レインの版画を。「羊飼へのお告げ」です。
天使からキリストの誕生を告げられて驚く羊飼いと羊たち。アムステルダム国立美術館蔵。
レンブラントは、工房作の「イサクの犠牲」をご紹介しています。

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ヘシオドス 「神統記」

ひつじ話

彼女たちなのだ (このわたし)ヘシオドス
以前聖いヘリコン山の麓で 羊らの世話をしていた このわたしに麗わしい歌を教えたもうたのは。
まずはじめに このわたしに語りたもうたのだ つぎの言葉を
神楯もつゼウスの娘 オリュンポスの詩歌女神(ムウサ)たちは。
「野山に暮らす羊飼いたちよ 卑しく哀れなものたちよ 喰(くら)いの腹しかもたぬ者らよ
私たちは たくさんの真実に似た虚偽(いつわり)を話すことができます
けれども 私たちは その気になれば 真実を宣べることもできるのです」

古代ギリシアの詩人ヘシオドス「神統記」冒頭部分を。
同書の解説ページには、

『神統記』のこの告白に明らかなように、羊を飼い畑を耕す若き農民ヘシオドスはここにはじめて詩人としての自己の存在を自覚し、しかも真実を歌う詩人として目覚めることになったのである。

との一文も。

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クロイスターズ美術館の祭壇用十字架

ひつじ話

祭壇用十字架 祭壇用十字架(部分)
12世紀中ころ、イギリス、バリー・セント・エドマンズ修道院と推定される、セイウチの牙
57.5×36.2?

メトロポリタン美術館別館クロイスターズ蔵の祭壇用十字架、の裏面です。中央のメダイヨンに神の子羊。

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陸粲 「庚巳編」

ひつじ話

十六世紀初めの高級官僚のひとりであり、学者でもあった陸粲(1494?1551)が、当事者から直接聞いた次のような話もある。
南京の華厳寺に月堂という僧がいる。
月堂は往年に仏縁をたよって貴州省を遊行したことがあったが、その地に人間を動物の姿に変えてしまう鬼がいることを知った。
男でも女でも羊、豚、驢馬などに自在に変えてしまう。
これらの動物は吸血鬼にされた人間の仮りの姿で、ひとを噛み殺して血をすするのである。
(略)
ある夜、数人の僧たちと共に僧坊に眠っていると、夜も深まったころ部屋の外で羊の鳴き声がして、しばらくすると一頭の羊が入ってきた。
羊は枕をならべて眠っている僧たちの体に鼻をよせて匂いをかぎまわっている。
次は自分のところだと察した月堂は、身近に置いていた錫杖をとると、やおら羊の腰のあたりを力まかせに打ちつけた。
羊はその場に崩れ伏す。と、見るまに羊の姿は裸身の女へと変わっていった。鬼術が破られたのである。

中国の怪異譚が大量に紹介されている「天怪地奇の中国」から、明代の「庚巳編」にある羊の怪異のお話を。
中国の怪異譚は、時代の幅はありますが、「捜神記」「唐代伝奇集」「子不語」などをご紹介しています。
そのほか、吸血鬼つながりで、ジプシーの怪異譚もご参考にぜひ。

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「ゴンチャローフ日本渡航記」

ひつじ話

琉球諸島とはいかなる所であろうか。
(略)
然り、これは太平洋の果てしなき水の真只中に投げ出された田園詩なのである。
さて、お伽噺に耳を貸していただきたい。
木は木として、木の葉は木の葉にきちんと整頓され、ふつう自然が生み出しているようなまぎらわしさもなく、偶然の無秩序に混乱していることもない。
すべてがワトーの絵とか、舞台装置にあるように、測定され、掃き清められ、美しく配置されているかのようである。
(略)
「これは一体何なのだ?」と私はますます驚きながら、繰り返した。
「テオクリトスだけではない。デズリエール夫人もゲスナーも、彼らのメナルクやフローヤやダフナなどといっしょにそのまま信じられる。リボンの手綱にひかれた羊たちが不足してはいるが」。
ところが、ちょうどそこへわざわざ、さながら田園詩の不足を補うかのように、わが鑑の羊たちが散歩のために岸に連れ出されて来た。

幕末のころ、ロシアの遣日使節プチャーチンの秘書官として日本をおとずれたイワン・ゴンチャロフによる旅行記から、「琉球諸島」の章を。
ゴンチャロフの目には、初めての琉球は、テオクリトスの田園詩ヴァトーの風景画に描かれるような楽園としてとらえられたようです。

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修道士の服装史(続き)

ひつじ話

紀元六世紀から十三世紀にかけての七世紀間で、初期には倫理的レヴェルにあった問題の焦点が、分類をめざす方向に変わり、かつては色彩の零度、すなわち初期修道生活ではおなじみの染色していない羊毛を求めていたのが、宗教界を黒や白や灰色や褐色などの修道士の衣の色で、念入りにまた決定的に分類するという、真の標章性を示すように代わっていった。
(略)
西欧の修道生活の起源には、簡素と謙虚への配慮があり、修道士は農民と同じ衣服をつけ、羊毛を染めたりはせず、仕上げも施さなかった。(略)
けれども衣服は修道士にとって、ますます重要性を増していった。
衣服は自身の立場の象徴であると同時に、属する共同体の標章でもある。
そのため修道会員の衣装と俗人の衣装の乖離は大きくなっていく。
(略)
九世紀以降、黒は謙虚と改悛の色として、すぐれて修道院にふさわしい色となったようだ。
現実の布地では、黒が茶や青や灰色、あるいは「自然な」色調でしばしば置き換えられていたが、文書ではますます頻繁に「黒の修道士」について語られるようになる。
こうした習慣は十、十一世紀にクリュニー修道院の影響力が拡がるとともに、決定的に定着する。
(略)
色彩の観点からは、シトー修道会の始まりをこの潮流のなかに位置づけるべきだろう。シトー会もクリュニー派の黒に対する反動であり、源泉への回帰をめざしていた。(略)
修道士自身が修道院で紡ぎ、織り上げ、染めていない羊毛で作った布地である。
(略)
托鉢修道会が宗教界に出現したのは、十三世紀初頭であり、これは上記の変化が一段落したときだった。
象徴を求めてならば、遅すぎた。今や標章の時代となっていたのである。
この点に関して例示的なのはフランシスコ会の場合であろう。
彼らもまた色彩の零度をめざしていた。
すなわち粗末で、染色せず、汚く、つぎはぎだらけの毛の長衣であり、灰色と褐色のあいまいな色階に属すものであった。
けれども理念面での執心や彼らの長衣の極端に多様な色合いにもかかわらず、フランシスコ会士は、意に反して外部からは俗人たちにより「灰色の修道士」と呼ばれ、標章化されるようになった。

以前お話した、中世ヨーロッパの修道服の色彩について、もう少し。色彩を身につけることを拒否するための衣が、かえってその色の名によって修道会を区別することになるのですね。

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「華夷通商考」

ひつじ話

ゲレジヤ
(略)
此山の邊に二つの流水あり。
一の水を白羊に飼ふときは、必ず黒羊に變ず。
又一の水を黒羊に飲しむれば、必ず白羊に變ずとぞ。

18世紀初頭、長崎の天文学者西川如見によって著された外国地誌「増補華夷通商考」から、西洋諸国などの地理が記された巻之五を。
江戸期の日本から見たヨーロッパは、ずいぶんと不思議に満ちた世界だったようです。
この他にも、スカンジナビアとおぼしきあたりに、

小人國
ホトリヤ國の北の海濱にありと云。
人の高二尺許り。鬚眉曾て無く、男女見分がたし。
土地鹿多し。人皆鹿に乗て行(ゆく)。
或鶴の如きの鳥其人を食事(くらふ)あり。故に小人常に此鳥と相戰ふ。

という記事があるのですが、これ、ピュグマエイのことです……よね?

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シャルル=エミール・ジャック 「夕暮れ」

ひつじ話

「夕暮れ」 「夕暮れ」(部分)

 「グラスゴー美術館所蔵 フランス印象派とその流れ」展カタログ 

何度かご紹介しているシャルル=エミール・ジャックを。「夕暮れ」です、が、すごく見覚えがあるので、すでにご紹介してしまっていたかと不安になったのですが、どうも「羊飼いの女と羊の群」と混同していたようです。似すぎです。

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トロワイヨン 「市場の帰り」

ひつじ話

「市場の帰り」

 「グラスゴー美術館所蔵 フランス印象派とその流れ」展カタログ 

ひさしぶりに、バルビゾン派を。コンスタン・トロワイヨンの「市場の帰り」です。

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ブラウニング 「廃墟の恋」

ひつじ話

Love Among the Ruins
Where the quiet-coloured end of evening smiles,
 Miles and miles
On the solitary pastures where our sheep
 Half-asleep
Tinkle homeward through the twilight, stray or
stop
 As they crop―
Was the site once of a city great and gay,
 (So they say)
Of our country’s very capital, its prince
 Ages since
Held his court in, gathered councils, wielding far
 Peace or war.
廃墟の恋
静かな色合いに夕暮が微笑むあたり、
 何マイルにもわたり、
人里離れた牧草地に羊の群れが
 なかば眠たげに
鈴鳴らしつつ、暮れゆく家路をはぐれ、また
                 立ち止まりながら
 草食むところ―
この地こそかつて栄華をきわめた都の跡、
 (言い伝えによれば)
わが国の首都と定められ、王は代々
 ここに宮殿を構え、
会議を召集し、勢威をふるった、
 平時にもまた戦時にも。

19世紀イギリス、ヴィクトリア朝の詩人ロバート・ブラウニングの「廃墟の恋」から、冒頭部分を。
引用書の訳注部分に、「1853―1854年の冬、ローマのカンパーニャ平野に立って、羊の鈴の音を聞きながら、今昔の感に打たれて書いたものだという。」とありました。
同時代の詩人としては、テニスンの「アーサー王の死」をご紹介しています。

記事を読む   ブラウニング 「廃墟の恋」

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