仁木英之 「薄妃の恋―僕僕先生」

ひつじ話

「それでは皆さまに我らが一皿をお目にかけます」
師の声を合図に、陸桐が研ぎ澄まされて白い光を放つ包丁ですっと蓮の葉を開く。ふてくされた表情が消え、料理人の凛とした空気をまとった若者の動きは熟練の舞手のように美しい。
蓮の葉をはがした中には蒸された羊が一頭丸ごと入っており、ほくほくと湯気を立てている。
観衆のざわめきは納得のささやきに変わるが、程端と陸桐の工夫はそれだけに止まらなかった。程端が羊の腹から取り出したものは、米と香草を腹に詰めた鶏であった。

一人称はボク、外見は美少女、性格は辛辣、しかしてその正体は得体の知れない仙人さま。仁木英之の中華ファンタジー「僕僕先生」シリーズの二冊目「薄妃の恋」から、料理大会の顛末を描いた「羊羹比賽」を。「江泥羊羹」と呼ばれる料理が審査員席に出てくる場面です。
ひょっとして、これ、先日ご紹介した「没忽羊羹」が元ネタなんじゃないでしょうか。

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歌川芳艶 「十二支見立」

ひつじ話

「十二支見立」 「十二支見立」(部分)
一英斎芳艶(いちえいさいよしつや) 安政五年(1858)8月  大判錦絵
未 ― 火・鶴の上半分・琴柱に濁点「ひ・つ・じ」
     (琴柱は濁点がついていなくても「じ」と読む)

江戸の浮世絵は、歌川国芳をいくつかご紹介しているのですが、こちらはその門人である歌川芳艶の十二支見立。パズルですね。
火と、鶴の「つ」と、琴柱(ことじ)の「じ」で、「ひつじ」らしいです。コツさえわかれば、意外と解ける……かも。

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中華料理の文化史

ひつじ話

羊肉の勢力拡大はいくつかの段階を経てきた。
考古学の発掘の結果によると、新石器時代の遺跡から出土した獣骨のなかで、もっとも多いのは豚、その次は羊、牛、犬となっている。
(略)
六朝になると、羊肉の方がしだいに多く食べられるようになった。
『斉民要術』に出てくる家畜類の加工および調理の用例数を見ると、一位が豚であることには変わりはない。
しかし、豚の調理例が三十七例に対し、羊は三十一例。羊肉は豚肉とほぼ互角で、三位の牛を大きく引き離している。
(略)
北方中国では「古くから羊が最上のものとされ、豚は下等品であった」と言われるが、いつからそうなったのかはこれまで明らかにされていない。
遊牧民族である匈奴族の南下はひとつの遠因であろう。
『後漢書』巻八十九「南匈奴伝」によると、紀元一世紀から二世紀のあいだ、匈奴人は数万人から数十万人の単位で南の方に入植した。魏晋以降になると、牧畜が盛んな突厥族の影響もまた大きかった。
(略)
十一世紀から十二世紀初頭にかけての中原における羊肉文化の定着にはもうひとつの重要な理由がある。
916年、中国の北部で契丹国が樹立され、約三十年後の947年に国号を遼と改めた。(略)
その間、契丹族の人たちがたえず勝者として南に進出し、彼らの風俗習慣を中原に持ち込んだ。
契丹族はもともと遊牧民で、(略)政権内には牧畜専門の役職を多数設けていた。(略)
正月一日には白い羊の骨髄の脂を糯米の飯にまぜあわせ、こぶしぐらいに丸くにぎった儀礼食がある。冬至の日には白い羊、白い馬、白い雁を殺し、その血を酒に入れる。
(略)
1114年、金が遼を破り、(略)中国の北方地域で女真族の政権が樹立した。(略)
女真族が中原に入ったとき、豚肉と羊肉はすでに地位が逆転していた。
黄河中、下流地域への移住にともない、支配民族である彼らもしだいに羊肉を多く口にした。
(略)
一方、宋が金に破れ、都を杭州に移した。
政権の転移とともに、大量の住民が北方から長江下流地域に移り住むようになった。
それにともない、羊肉を食べる習慣はさらに南下した。
南宋の都・杭州の日常生活を記録した『武林旧事』巻六「市食」には羊の脂肪でこねたニラパンや羊の血で作った料理がある。

中華料理の歴史を概観できる「中華料理の文化史」より、「羊肉vs豚肉」と題された一章を。遊牧民の食文化であった羊肉食が南進していくさまが、わかりやすく解説されています。
金や南宋の羊肉食については、「山家清供」厨娘女真族の全羊席などのお話をしています。

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フランチェスコ・デル・コッサ 「スキファノイア宮殿壁画」

ひつじ話

スキファノイア宮殿壁画
ルネサンスのイタリア宮廷文化における占星術の証例。フェッラーラのスキファノイア宮殿月暦の間にボルソ・デステが描かせた壁画。黄道十二宮から牡羊座。
予言信仰と正統信仰と占星術的判断(すなわち、占星術の一種で、その「託宣」にもとづいて行動したり選択したりする)への信仰の間に神学的矛盾があることは、明らかに証明できた。
しかし、君主はこれらの「支配の道具」を同時に用いることをやめなかった。
(略)
1450年からピエル・マリア・ロッシが建てさせたパルマ近郊のロッカビアンカ城では、通称「グリセルダ」の間の天井が、占星術的図像でおおわれている。これが城主のホロスコープ(誕生時の天球図)であるという仮説には根拠がないわけではない。説得力のある証拠はないが。
しかし、フィレンツェでは、サン=ロレンツォ教会の旧聖器室でも、サンタ=クローチェ教会のパッツィ家礼拝堂でも、クーポラの内部装飾に星々と惑星が描かれている。これらの配置は、ある時刻の十二星座をきわめて精確に再現している。
同様に、ローマではファルネジーナ荘のガラテアの間の天井が、1466年12月1日の星の配置を再現している。これは、この居館を建てさせたシエナ人の銀行家で文芸保護者のアゴスティーノ・キージの誕生日である。

15世紀イタリアのフランチェスコ・デル・コッサによるスキファノイア宮殿のフレスコ画から。
引用は、ルネサンス宮廷文化の解説書から、中世以上に強まった現象としての占星術信仰について書かれた一文を。

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法隆寺所蔵 星曼荼羅

ひつじ話

星曼荼羅 星曼荼羅(部分)

 「国宝法隆寺展」カタログ 

先日ご紹介した星曼荼羅の、法隆寺蔵のものを。四重になった円の、第三重に十二宮が。

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トーマス・マン 「ヨセフとその兄弟」

ひつじ話

イサクは衰弱し、死んだ。
高齢のために目がみえなくなっていたが、代々伝えられてきたイサクという名前をもつその老人、アブラハムの息子は、臨終のおごそかな時に、ヤコブや居合わせていた一同の面前で、「自分」のことを高い恐ろしい声で、予言者のように、頭が変になったように、受け容れられなかった犠牲の仔羊のことを話すように語り、牡羊の血を自身の血、真正な息子の血と考えるべきであって、万人の罪をあがなうために流された血であると語った。
それどころではない、イサクは息を引き取る直前に、不思議な巧妙さで牡羊のように鳴こうとした。と同時に血の気のひいた顔が驚くほど牡羊の顔に似てきた。―むしろいままでも存在していた類似性にひとはいま急に気づいたというほうがいいかもしれない―、一同は愕然とし、あわててひれ伏したが、間に合わなくて、イサクの顔が羊の顔になるのがみえてしまった。

トーマス・マンによる、聖書に材を取った長大な小説「ヨセフとその兄弟」より、第一部のヤコブ物語の一節を。
旧約聖書創世記における、「イサクは年老い、日満ちて息絶え、死んで、その民に加えられた。その子エサウとヤコブとは、これを葬った。」という記述に対応する場面ですが、だと思うんですが、ほんとに同じ場面なんでしょうか、これは。
イサクについては、「イサクの犠牲」テーマの絵画などをいろいろご紹介しておりますので、こちらでまとめてぜひ。創世記の対応部分は、こちらで。
小説のタイトルであるヨセフと兄弟については、ラファエッロの「兄たちに夢の話をするヨセフ」をご紹介しています。

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マーレル・デイ 「神の子羊」

ひつじ話

羊たちはどこなりと好き放題に歩きまわる。
牧草地だろうと、回廊や礼拝堂だろうと、四六時中メエメエと、あたりかまわず羊の賛美歌を響かせている。
儀式としての剪毛日に限らず、修道女たちの羊毛集めは一年中だ。
灌木の間に、聖母マリア像の表面に、あるいは羊たちがぶつかりながら通り抜ける石造物の割れ目の中に、羊毛が引っかかっていた。
羊たちは、修道院中をうろつきまわってはいるが、群れからはぐれることはなかった。
夏は香りのよい草が豊かに茂り、冬の間も羊たちの食欲を満たすのに充分なほどだ。
シスターたちを怖がることもない。
あまりにも長い間一緒に暮らしているおかげで、羊たちは―そんな知能があるとしての話だが―シスターたちのことを、羊飼いではなく、自分たちの仲間だと思っていた。

マーレル・デイの小説です。ジャンルとしては、サスペンスに入るのかどうか、といったあたり。
人生の大半を修道院の中だけで過ごしてきた三人の修道女のもとに、一帯をリゾート地として開発するために教会司教の秘書官がやってきます。事態は非常にスムーズに「ミザリー」的方向にすすむのですが、にもかかわらず、感情移入したくなるのは三人の老女のほうなのがポイント。羊飼ってますし。

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「陽気なギャングの日常と襲撃」

ひつじ話

「あいつも人質なのか。というよりも、久遠のために身代金を払うとしたら、誰なんだ? あいつの親の話を聞いたことないぞ」
「あいつが人質になったら、ニュージーランドの羊たちが必死の思いで、日本にやってくるかもな。救い出すために」
「つまらない冗談だ」響野は鼻で笑った後で、「ただ、ありそうな気もする」と続けた。

伊坂幸太郎「陽気なギャングが地球を回す」の続編です。
トラブルの渦中にある「動物好きで、人間嫌いの」(本文より)久遠を助けに来た、仲間たちの会話。良いなぁ、久遠……。

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没忽羊羹

ひつじ話

隋・唐の食文化は北方的である。幸いなことに、この時代の献立集が二つものこっている。
その第一は隋の謝楓の『食経』である。書かれた時期ははっきりしないが、何せ隋は三十年しか続かなかったのだから、その前後に多少くいこむとしても、まずは紀元600年ころのものと見て宜しかろう。
(略)
料理法は書いてないから、後世の料理書で類推するより仕方がない。仲でも傑作は
  没忽羊羹  人数にあわせて鵞鳥を全るのまま下ごしらえし、その腹に粳米飯と香辛料・調味料を詰めこみ、毛や臓物をぬきとった羊の腹にその鵞鳥をつめこんで、全焼にする。 あとで取り出して鵞鳥だけを供する。
羊一頭を全るまるダシにする。何とも贅沢なはなしだ。

篠田統「中国食物史」より、「隋・初唐の料理」の項を。
中国の料理書については、時代は離れますがいくつかご紹介しています。
「居家必用事類全集」「山家清供」、羊のあつもの絡みでお話した「斉民要術」、清朝の「随園食単」など。おいしそうだったり、想像もつかなかったり。

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アポロニオス 「アルゴナウティカ」

ひつじ話

表一面黄金の羊皮は、一歳牛か、
それとも狩人に赤鹿とよばれる鹿の
皮ほどの大きさがあり、ずっしりと重く
房毛におおわれていた。かれの歩く足もとから、
地面がたえず強いきらめきを放った。
あるときはそれを左肩にかけ、
うなじの先から足もとまで垂らして歩き、
あるときは手に掴んで巻いた。誰か人間か神かが
かれに出あってそれを奪いはしないかとひどく恐れたからだ。
 暁が大地に広がり、かれらは一行のもとにたどり着いた。
ゼウスの稲妻のように輝く大きな羊皮を見て
若者たちは驚嘆し、めいめい立ち上がって、
それにさわり手にもちたいと望んだ

紀元前3世紀ごろの詩人アポロニオスによる「アルゴナウティカ」から。
探し求めた金羊毛皮をついに手に入れた英雄イアソンが、アルゴナウタイのもとへ帰還する場面です。
金羊毛皮については、オウィディウスの「転身物語」より「イアソンとメデア」をご覧ください。
その他に、同じく「転身物語」の「ペリアス」ギュスターヴ・モローの「イアソンとメディア」「アルゴー号乗組員の帰還」グリルパルツァー「金羊毛皮」「家畜文化史」の考察ロバート・J・ソウヤー「ゴールデン・フリース」なども合わせてどうぞ。

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バイロン 「カイン」

ひつじ話

アベル  〔カインに手向いながら〕いけません。―不敬な言葉に、不敬な行いを加えないでください。
     あの祭壇はあのままにしておいてください。―あれはエホバが
     犠牲を受け入れてくださったので、今は彼の永遠のよろこびで
     浄められたのです。
カイン           彼のだ!?
     彼のよろこびだ!? 燔(や)いた肉の煙る血の匂いに
     つつまれた彼の高いよろこびとは
     いったい何のことだ―死んだ仔羊をいまなお求めて
     鳴きまどう母羊の苦しみを考えてみろ。お前の敬虔な
     刃の下の悲しい、何もしらぬ犠牲羊の跳び上るような
     痛みを思え。

ジョージ・ゴードン・バイロンの劇詩「カイン」から。
旧約聖書にあるカインのアベル殺しを描いた物語の山場、アベルの供えた仔羊のために兄弟が争う場面です。
カインとアベルのテーマについては、フィリップ・ド・シャンパーニュの「アベルの死の哀悼」「思想としての動物と植物」などをご参考にどうぞ。

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ピカード 「羊飼いと王様と南西風の話」

ひつじ話

娘は、すぐに羊飼いの若者のいる草原にむかってかけ出しました。
もう夕暮れ時でしたから、若者は羊たちを囲いのなかに入れているところでした。
娘の姿を目にした若者は、たいそうおどろきました。
「粉屋の娘さんじゃないか。あんまり長いこと会わなかったから、どこかへ行ってしまったんだと思っていたよ」
「あなたに返事をするために、もどってきたのよ」娘は言いました。

バーバラ・レオニ・ピカードの児童文学です。
神にも等しい南西風と、美しいドレスを贈ってくれる王様と、村の親切な羊飼いから、同時に求婚された粉屋の娘が、遠回り(南西風にさらわれて、海まで越えてます。文字通りの遠回り)の果てに羊飼いのもとに帰ってくるまでのお話。

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「オデュッセイア」より「第十一歌 冥府行」

ひつじ話

さて、われらが大粒の涙をこぼしつつ、悲しみのうちに浜辺の船に向かっている間に、キルケはすでに家を出て、何の造作もなくわれらの横をすり抜け、牡の羊一頭と黒い牝羊一頭とを、黒塗りの船の船側に縛り付けておいてくれていた。
(略)
ここまで来て、船を陸に揚げると羊をおろし、われわれはオケアノスの流れに沿って歩き、やがてキルケの教えてくれた場所についた。
ここでペリメデスとエウリュロコスとが、犠牲獣をつかまえておさえると、わたしは腰の鋭い剣を抜き放ち、縦横それぞれ一腕尺の穴を掘り、その穴の縁に立ってすべての亡者に供養した。
(略)
さて亡者の群に祈って嘆願した後、羊を掴まえ穴に向けて頸を切ると、どす黒い血が流れ、世を去った亡者たちの霊が、闇の底からぞろぞろと集ってきた。

ギリシア神話の英雄オデュッセウスについては、第九歌のキュクロプスとの闘いや「イリアス」「アイアス」の一場面をご紹介しているのですが、こちらは「オデュッセイア 第十一歌」から。
女神キルケの指示に従い、冥府にすむ予言者から帰国のための予言を得んと、オデュッセウスと部下たちが亡者たちの供養を行う場面です。
冥界に入った亡霊たちが、生前の記憶を取り戻したり生者と会話をするためには、犠牲の羊の血を飲む必要があるとのこと。

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「易経」より「羝羊觸藩贏其角」

ひつじ話

九三。
小人は壮を用い、君子は罔(もう)を用う。貞なれども厲(あやう)し。
羝羊(ていよう)藩(まがき)に触れてその角を贏(くるし)ましむ。
九三は過剛不中、しかも乾卦の極に居るから、事に当って壮に過ぎやすい。
壮んな上にも壮んな状態である。従って小人はとかく壮を用うることにおいて度をすごしやすいが、君子はその度をすごすことがない。
もし壮を用うることの度がすぎれば、いかに目的が貞正であっても危険である。
たとえて言えば、もともと強情な性質のある羝羊(牡羊)が妄進して藩に触れその角をひっかけて進退に苦しむようなものである。

古代中国で成立した、易経六十四卦のひとつである「大壮」の解説部分から抜粋。
要するに、まぁちょっと落ち着け、という内容の卦なのですが、そのたとえとして、暴走した牡羊が使われています。

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