ケンペル「江戸参府旅行日記」より。

ひつじ話

彼女たちは熊野やその近国に最も多くいるので、仏教の方の尼僧と区別するために、熊野比丘尼と呼ばれている。
彼女たちは、ほとんどが、われわれが日本を旅行していて姿を見たうちで最も美しい女性である。
善良で魅力的に見えるこれらの貧しく若い女たちは、大した苦労もせずに尼として物乞いする許可を受け、旅行者から思うままに魅惑的な容姿で大へんうまく布施をまきあげる術を身につけている。
(略)
この女たちには出家らしさも、貧しさも感じられない。
なぜなら剃った頭には黒い絹の頭巾をかぶり、一般の人と同じ着物をこざっぱりと着こなし、手には指のない手袋[手甲]をはめ、普通は幅の広い日笠をかぶって、おしろいを塗った顔を外気から守っている。
また短い旅行杖をついているので、ロマンティックな羊飼いの女を思い起させる。

17世紀末、長崎と江戸の間を旅したエンゲルベルト・ケンペルの旅行記から。比丘尼の姿で売色をする美しい女たちと街道で行き合い、その様子を田園詩の女羊飼いに見立てています。

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北八「時におめへがたのよふなうつくしい顔で、なぜ髪を剃りなさつた。ほんにそふしておくはおしいものだ
びくに「ナニわたしらが、たとへ髪が有たとて、誰も構人はおざりませぬ

絵に描かれたものがないかと、だいぶ時代は下がりますが「東海道中膝栗毛」を繰ってみましたら、ありましたありました。弥次喜多が近くを歩いている比丘尼に声をかけて、振られるシーンが。ああ、振られるんだ……。

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カウナケスとその伝播。

ひつじ話

前3000年紀ともなると遺跡・遺物が激増するため、時代像はにわかに鮮明となってくる。
毛皮着をまとった赤土焼(テラコッタ)や石製の彫像が王の墳墓や城砦の遺構から多数出土し、古代シュメールの服飾事情も大筋は把握できるようになったのである。
そうした出土品の数々から、前3000年紀以降、シュメールでは毛足の長い毛皮着の愛用されていたことが解明された。
前3500年頃のウルの王墓をはじめ、前3000年─前2500年頃のシュメールの遺跡からは、うろこ状に束ねられたヤギやヒツジの毛皮着─すなわち「カウナケス」─をスカート状に巻きつけた人物像が続々と発掘された。
少し時代を下ると、規則的な房毛の配列をもった類似の形式の服地が「カウナケス」として総称されるようになった。
カウナケスは、初期にはヤギやヒツジの姿をそのまま真似たものが一般であったらしく、時代を下ったカウナケスでも動物の尻尾を象徴する棒状の結び目を背にあしらったものが多かった。
(略)
カウナケスはギリシア・ローマ世界を通じて紀元後のキリスト教圏にも持ち込まれたが、そのチュニック(短袖つきのT字型衣装)が中世キリスト教社会に入って聖ヨハネひいては羊飼いのシンボルとして受け継がれたのである。

時々お話しているメソポタミアのヒツジ風衣装カウナケスについて、「毛皮と皮革の文明史」に詳細な解説がありました。キリスト教文化とつながっていくものだったとは。

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「イエズス会日本年報」より、本能寺の首級。

ひつじ話

明智は城内にゐては安全でないと考へ、宵の口に主城坂本に向って逃げた。
彼はほとんど単身で、世人の言ふところによれば少しく負傷してゐたが、坂本には到着せず、聖母の祝日にはどこか知れぬところに隠れてゐた。
翌日は首を斬る熱が甚しく、信長の殺された場所に最初に持参したのが千以上であった。
これは悉く同所に持参するやう命ぜられた故であって、信長を祀るためそこに並べた。
(略)
その後二日を経て、パードレ・オルガンチノと予と信長の殺された場所を通過した折、数人で三十以上の首級を携へて来たが、縄で下げて、恰も羊または犬の頭を運ぶやうにし、少しの悲しみの様子も示さなかった。

徳川家康の駿府御分物帳豊臣秀吉の大坂城と来たからには、織田信長関係でなにかヒツジ話はないかと、さらに「イエズス会日本年報」を繰っていましたら、とんでもない表現にぶつかってしまいました。
本能寺の変及び山崎合戦ののち、明智方の首級が本能寺に集められるさまを記した場面ですが、人の首がヒツジの頭にたとえられてます。日本人的には、それはそれで怖いんですが……。

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豊臣秀吉の緋羅紗コレクション(?)

ひつじ話

関白殿は一私人の如く案内をなし、自ら戸および窓を開き、我等を第八階まで導き、各階に納めた富を語り、汝等が見るこの室には金が満ち、この室には銀、かの室には生糸及び緞子、かの室には衣服、向ふの室には刀及び立派なる武器が一杯であると語った。
我等が通過した室の一つには新しい緋の外套Capasが十または十二絹の紐で吊してあったが、日本においては甚だ珍しいものであった。

ルイス・フロイスによるイエズス会の活動報告書を読んでおりましたら、大坂城で豊臣秀吉に拝謁したときの記録に、楽しげな場面がありました。
おそらく、以前ご紹介した木瓜桐文緋羅紗陣羽織のようなものが何枚も飾られていたのではないかと。華やかそうです。

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「ホビット ゆきてかえりし物語」

ひつじ話

「村のやつらが、てめえとバートに食われてえようって、いつまでもぐずぐずしてると思ってんのけえ。山を下りてきてから、てめえらで村を一つ半もたいらげちまったじゃねえか。ゼータクゆうんじゃねえ! 山にいたときにゃ、しけてやがったからよう、こんなにけっこうけだらけなヒツジがあったら涙ながして、“あんがとよ、ビル”なんて言ったところだぜ」。
こう言うと、ウィリアムは、いま炙っているヒツジの足から大きな肉のかたまりを食いちぎり、袖で口をぬぐいました。
そう、たとえ頭が一人に一つっきりしかなくっても、トロルという連中はこのように大食いなのです。
すっかり立ち聞きしてしまったビルボは、なにか行動を起こすべきでした。
そうっと引き返して、すぐそこに、険悪な気分になったかなり大ぶりのトロルが三人もいて、ヒツジに飽きあきなので、炙りドワーフか、炙り子馬の肉なら、待ってましたとばかりに飛びつくだろうと仲間たちに知らせるか、さもなくば、押入のとっておきの早業をさっそくにひろうすべきところでした。

J.R.R.トールキン、山本史郎訳の「ホビット」から、主人公ビルボのはじめての冒険、第2章「ヒツジのあぶり肉」の場面を。

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ヘリック 「われ富めり」

ひつじ話

われ富めり
夜のしざりゆくを告げる柱時計はなくても、
わが家の雄鶏は朝が近づけばときをつくる。
婢女のプルーデンスは幸ひよくできたをんなで、
わたしの持つともなく持つてゐる僅かな財物をつましく使ふ。
日毎に白い面長な卵を生むめん鶏は
くッくッと鳴いておのれの手柄を知らせる。
油断なく聞き耳を立てる鵞鳥は
なにか身に危険が迫れば舌を振り立てて訴へる。
食事のたべかすで飼ひ馴らした子羊は
この仔一匹を残して母親に死なれた哀れなやつ。
縦横にわが家を走り廻る猫は
鼠のこそ泥どもを平らげつつぶくぶく太る。
この他にまだトレーシーがゐる。田園に隠れたわたしの日常を
いやが上にも楽しくするのがこの毛むくぢやらの可愛い犬だ。
これら数へ上げたものは皆わたしの心をなごませる玩具と言へよう。
といふのも心労のない所では一寸した物事でも結構楽しいのだから。

森亮の訳詩による、17世紀イギリスのロバート・ヘリック『ヘリック詩鈔』より、「われ富めり」を。

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駿府御分物帳の羊毛製品。

ひつじ話

元和二年(1616)四月十七日に徳川家康は歿し、駿府城に残された膨大な遺産の大部分は、のちに徳川御三家と呼ばれる尾張・紀伊・水戸の三家の初代、即ち家康の九男義直、十男頼宣、十一男頼房の三人に分け与へられた。
(略)
『駿府御分物(すんぷおわけもの)帳』とは、この遺産分配に当って作成された請渡帳である。
(略)
衣服と反物
絹布類の種類は実に多種多様で、四八四項に上って計上されてゐる。
(略)
それらのうち、名称から推して南蛮渡りと思はれる品目のみを掲げてみよう。
あびと   ゑけれしま
おらんとぬの   おらんと嶋
かいき   かなきん
かりせや   ごろごろ
さらさ   しちん
しやむろ   せてん
たふしいら   ちよろけん
びろうど   へろへとらん
ほろかあと   らしや
(略)
新時代の品々
(略)
虎の皮四枚、羊之皮二枚、らつこの皮十六枚、こつひの皮十二枚、唐皮十枚が見え、敷物や武具に用ゐるためであったと思はれる。

ときどきお話している羅紗関連で。
『海外視点・日本の歴史』シリーズより「将軍の国と異邦人」所収の、「家康の遺産に見る世界の品々」から。徳川家康の遺品目録「駿府御分物帳」に記された海外産品についての解説ですが、羊毛製品がずいぶんあるようです。

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名古屋ボストン美術館 「ルノワールの時代」展

ひつじ話

名古屋ボストン美術館にて、「ルノワールの時代 近代ヨーロッパの光と影」展、開催中です。
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以前ご紹介した、ジャン=フランソワ・ミレーの「羊の毛刈り」や、シャルル=フランソワ・ドービニーのエッチング「牧養場の羊、朝」など、ヒツジを描いたものがいくつかありました。

会期  2016年3月19日(土)─8月21日(日)
開館時間  平日10:00─19:00、土日祝日10:00─17:00
        ※入館は閉館時間の30分前まで
休館日  月曜日(祝日・振替休日の場合はその翌日)

お近くならば、ぜひ。

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東京国立博物館 「黄金のアフガニスタン」展

ひつじ話

東京国立博物館にて、特別展「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝」が始まりました!

「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝」展
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古くから『文明の十字路』として栄え、シルクロードの拠点として発展したアフガニスタン。
その北部に点在する古代遺跡で発掘された貴重な文化財は、アフガニスタン国立博物館を代表する収蔵品となっていました。
1979年のソ連による軍事介入やそれに続く内戦により同館は甚大な被害を受け、その多くが永遠に失われてしまったとみられていました。
ところが、その貴重な文化財は、国立博物館の勇敢な職員たちにより、秘かに大統領府地下の金庫などに移され、その後14年もの間、静かに守り続けられていたことが2003年に判明します。
本展は、この秘宝の再発見を契機に、アフガニスタンの文化遺産復興を支援するために企画された古代アフガニスタンの歴史と文化を紹介する国際巡回展です。
会期  2016年4月12日(火)─6月19日(日)
開館時間  午前9時30分─午後5時
      土・日・祝日及び5月2日(月)は午後6時まで、金曜日は午後8時まで
      ※入館は閉館の30分前まで
休館日  月曜日  ※ただし、5月2日は開館
会場  東京国立博物館 表慶館(上野公園)

メイン展示品にしてマスコットキャラクターにもなっている黄金のムフロン像は、もちろん必見です。
ともあれ開催概要を。

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愛知県美術館 「黄金伝説」展

ひつじ話

愛知県美術館で開催中の、「黄金伝説」展に行ってまいりました。
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黄金伝説 燦然と輝く遺宝 最高峰の文明展
会期 2016年4月1日(金)─5月29日(日)
会場 愛知県美術館 (愛知芸術文化センター10階)
開館時間 10:00─18:00 金曜日は20:00まで(入館は閉館30分前まで)
休館日 毎週月曜日

最初の展示品が、プリクソスを描いたギリシャ陶器でした。
さらに進むと、以前ご紹介したドレイパーの「金の羊毛」ですとか、ギュスターヴ・モローの「アルゴー船の乗組員」といった、金羊毛伝説関連の美術品が次々と。
さらに、羊頭や距骨をモチーフにした装飾品もいくつか。
あまりのヒツジ度の高さに、かえってうろたえてしまいました。お近くならば、ぜひとも!

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羊形硯(続き)。

ひつじ話

羊形の考古遺物の確実な例としては、八世紀の奈良県平城京跡や三重県斎宮跡などから見つかった硯がある。
現在その出土数は10例に満たないほど少ない。
この頃の硯は焼き物で、多くは円形をした円面硯だが、ごく少量羊形や鳥形といった形象硯(けいしょうけん)が存在する。
羊形硯(ようけいけん)は円を描くように湾曲する二本の大きな角が特徴的で、四肢を折って座り込んだ羊の背中が硯になっている。
羊の頸の後ろ、硯の海にあたる部分に墨の痕が残っている例もあり、珍しく貴重なものではあるが実際に使うこともあったようである。

時々お話している羊形の硯について、「十二支になった 動物たちの考古学」に解説がありました。ちゃんと実用品だったんですね。

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新井白石 「東雅」

ひつじ話


(略)
我國のいにしへ凡獸をばシゝといひけり。
日本紀に獸の字讀でシゝといふ即是也。
其肉の食ふべきをやいひぬらん。
牛をウシといひ。鹿をシカといひ。羚羊をカマシゝといひ。
羊をヒツジといふが如き。
皆これ其肉の食ふべくして。
また角生ふるものども也。

新井白石による語義の研究書『東雅』の「牛」の項に、気になる一文がありました。なにか意味があるんでしょうか、「シ」つながり。

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大黒屋光太夫と羅紗の関係。

ひつじ話

『御府内備考』(文政12年)によれば、当時、光太夫の居宅がおかれた江戸の御薬園は九段坂脇、一番町御堀端に三ヵ所、三番町に二ヵ所、蛙ヶ原の七ヵ所にあった。
そのうち六ヵ所は火災で焼失したのを契機にして、一時は御勘定奉行持から御普請奉行持の火除植物場となり、さらに寛政七年四月十九日に奥医師渋江長伯支配の御預かり地となった。
そして、同書には「寛政六年六月十七日より、蝦夷帰り人幸太夫・磯吉といふ二人を御堀端付の御薬園中に移されて御扶助あり。又同所にて羅紗の織立等をもなさしめらるといふ」という興味ある事実が記載されている。
羅紗は羊毛でつくられた厚手の毛織物であり、光太夫たちは帰国のときに羅紗を素材にした、ロシアの外套らしき洋服をもち帰っている。

以前、漂流民大黒屋光太夫からの聞き取りによるロシア見聞記「北槎聞略」をご紹介いたしました。
この「北槎聞略」を著した桂川甫周の人となりなどを語る「桂川家の世界」を読んでおりましたら、光太夫らが羅紗の製法を持ち帰った可能性について示唆する一文がありました。
江戸の薬園のヒツジ飼育については、「羊蹄記」「資料 日本動物史」島田元旦「黄初平図」絡みのエピソードなどをご紹介しています。

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驚異の部屋の植物羊。

ひつじ話

赤ん坊の頭蓋骨の空間を埋めているウォーム骨は、オラウス・ウォルミウスとしても知られているオーレ・ウォームの名前から名付けられた。
しかし17世紀、彼はむしろコペンハーゲンにあるコレクションの展示室ウォーミアヌムで有名だった。
そこを訪れる人々はそれを「驚異の部屋」と呼んでいた。
ここでいちばん印象的な収蔵品は、「タタールの子羊野菜」であろう。
半ば動物で半ば植物、果実として羊が実っていた。
先史時代の巨人族の頭蓋骨や新世界から持ってきたコーヒー豆も展示されていた。

ページを繰っても繰っても悪寒が走るエピソードが山盛りの「「最悪」の医療の歴史」を読んでいたところ、ふいにほっとするような小話がはさみこまれていたので、嬉しくなってしまいました。
植物羊とコーヒー豆が同じ枠の中で語られる時代と場所があったということそのものが、驚異的でワクワクします。
植物羊のお話はよくしております。こちらでぜひ。

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江戸期の毛織物事情。

ひつじ話

イギリスが日本まで来て売ろうとしたのは布類だった。
アダムスはイギリスが日本へ進出する前に、すでに日本での貿易を薦める内容の書簡をイギリス側に送っている。
彼はその手紙で「そこ(日本)では布類は魅力ある商品とされている」と記す。
(略)
しかし、布類の輸出は日本では思ったほど順調には進まなかったが、それには理由があった。
まずは、流行(ファッション)の問題である。
流行という概念そのものがヨーロッパではまだまだ一般的ではなかったし、昨年は売れたものが今年は売れないという現象にイギリス人は思いきり面喰らったのである。
そのうえ、日本人特有の色彩の好みがあった。
コックスによれば、日本人が着るのは黒、赤、それに「悲しげな青類(sad blues)であり、初期に輸入した鮮やかな色彩は人気がないとしている。
(略)
素晴らしい陣羽織の多くはこうして輸入された羊毛で織られたもので、おそらくはイギリス製の羊毛も原料として使われたはずである。
結局、1620年、7年間もの努力の後、コックスはロンドンの東インド会社に手紙を書き「我々のイギリス製毛織物に関しては、日本で大量に販売することができるとは思えない」と言っているのだから可哀相な話である。
(略)
日常的な品質のものも、ペルペチュアナ(耐久性)という安価なイギリス製の毛織物が江戸時代を通じてオランダ人によって日本に輸入されつづけていた。
1800年になると、将軍家斉がオランダカピタンのワルデナルに、日本でも毛織物の生産を開始できるようにと、羊を輸入するように要請している。
もちろん、ワルデナルはこれを拒むが……。

時々お話している江戸期の羊毛製品について、さらにもう少し。
タイモン・スクリーチの「江戸の英吉利熱」から、当時の日本と羊毛製品帝国としてのイギリスの関係について語られた部分を引いてみました。
決して需要がなかったわけではないと思うんですが、なにかとかみあわなかったみたいです。

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