テル・ムーレン,フランス・ピーテル (1843―1927)
オランダの風景画家、動物画家。
(略)
羊の群れや羊飼い等、羊をテーマにコローを想わせる銀灰色を主調とする微妙な色の諧調と比較的流動的な筆致を用いて描いた。「松方コレクション展 ―いま甦る夢の美術館―」カタログ
19世紀オランダのテル・ムーレンによる「牧羊」を。空気にとけ込むような羊たち。
ひつじ(ヒツジ、羊)のニュース、画像(写真)、グッズ、サイト、牧場などを紹介するひつじサイト。あなたの好きな羊もたぶん見つかります。
テル・ムーレン,フランス・ピーテル (1843―1927)
オランダの風景画家、動物画家。
(略)
羊の群れや羊飼い等、羊をテーマにコローを想わせる銀灰色を主調とする微妙な色の諧調と比較的流動的な筆致を用いて描いた。「松方コレクション展 ―いま甦る夢の美術館―」カタログ
19世紀オランダのテル・ムーレンによる「牧羊」を。空気にとけ込むような羊たち。
「論より証拠、まずは実物を食してみるがよい」
と言うと、兼続はかるく両手を打ち鳴らした。
それを待っていたかのように、襖が開き、控えの間にいた前髪姿の小姓が、黒漆塗りに螺鈿を散らした四方盆をささげ持って部屋にあらわれる。
目の前に置かれた菓子を一目見て、
「これは羊羹ではございませぬな」
庄九郎は声を上げた。
(略)
そもそも羊羹は菓子ではない。
はるか天平のむかし、唐の国から渡来した料理の一種で、羊の肉をこねかためて汁に浮かべたものだった。
わが国では仏教の影響で肉食を避けたため、肉のかわりに小豆、山芋、小麦粉、葛粉をこねて蒸し、汁に浮かべるようになった。
のちに、その蒸し物を汁に入れずに食べるようになったのが、菓子としての羊羹のはじまりである。
ただし、それは今日、われわれが一般に羊羹と呼ぶ、“練り羊羹”ではない。
小豆の餡に小麦粉、浮き粉を加えて蒸し固めた素朴な“蒸し羊羹”であった。
“練り羊羹”が発明されたのは桃山時代、金賦りのあとの茶会で、秀吉が披露したのがはじまりだった。
庄九郎の目の前に置かれているのは、まさにその、わが国最初の“練り羊羹”にほかならない。
昨日に続いて、羊羹話を。火坂雅志の短篇、「羊羹合戦」です。
時は天正十七年。関白秀吉から下されたものを参考によりすぐれた羊羹を作ることを命じられた、上杉家家臣庄九郎の孤独な闘い。現在につづく練り羊羹が確立しつつある、当時のさまが描写されています。
鎌倉新仏教、なかでも禅宗は和菓子のみならず、日本の食文化の発展にとって実に大きな役割を果たしています。
禅宗は中国(宋)へ留学した僧侶等によってもたらされましたが、同時に教義だけでなく様々な文化や習慣も将来されました。
(略)
中国に渡った僧侶は、羊などの動物や魚を使った羮(あつもの)を見聞きし、食べもしたでしょう。
本来は魚肉食をしない禅僧ですが、信者から供養されたものは魚肉でも受けなければならなかったといいます。
その羮を日本へもたらした禅僧達、しかし本来彼らは魚肉食を禁じられていました。
寺院の中では小豆や大豆などの豆類や米・小麦をはじめとする穀物を粉にして練って、魚や羊や猪などの肉に見立てて成形した蒸物に、汁をかけて食べていました。いわゆる精進の見立て料理です。
(略)
長い間料理(点心)として扱われてきた羊羹も、戦国時代頃には菓子に衣替えしています。
室町時代、饗膳の献立などに料理としての羊羹が登場する一方、茶席の菓子として羊羹が登場します。
(略)
料理としての羊羹にしても、小豆などで作った固形物です。
この固形物が甘味を持ち、料理と共存しながら徐々に独立して、菓子に変化したのでしょう。
もともとは羊肉のスープだった羊羹が、なにがどうなってあの甘いお菓子になったのか。そのあたりの事情がよくわかる解説本がありました。
中途を抜かせば驚くような変化でも、歴史を知ればなるほどと…………思えるような、やっぱりよくわからないような。
ルネサンス期イタリアの教養人は、万物は土・空気・火・水から成り立ち、「存在の偉大なる連鎖」にしたがって構成されていると信じていた。
(略)
植物や生き物はひとつひとつ細かく序列化され、同じ階級に属するものはなかった。
(略)
存在の偉大な連鎖では、イルカと鳥の間に陸の生き物がいる。
陸の生き物のなかでは豚がもっとも下等で、羊は中間、牛(特に子牛)がもっとも高等だった。
食肉としていちばん高貴なのは空を飛ぶ鳥だ。
ルネサンス期イタリアの食文化について語る「ルネサンス 料理の饗宴」から、当時の食肉に対する考え方についての一章を。ちなみにもっとも下等な動物は水底の貝類らしいです。羊は、陸海空合わせても、ほぼ中間ということでしょうか。
「おれに乗ってゆくかね」
と馬が現れる。
「おいでなされませ」
と寄ってきたのは羊である。
「こちらですよ、こちらですよ」
せわしく猿が声をかけてくる。
(略)
その女を中心にして、周囲を、先ほどの鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鳥、犬、猪が囲んでいる。
夢枕獏、「陰陽師」シリーズの新刊から。方違えに失敗し、闇にとらわれた副主人公(いや、主人公かも)源博雅に、声をかけてきたものは。
統一は成った。だが、人びとはまだ半信半疑であった。
呉を降したとき、晋の武帝司馬炎がまっさきに命じたのは、
「江南には美女が多いときく。五千の美女を選んで、我が後宮にいれよ」ということだった。
晋の武帝司馬炎の後宮は、美女の数がついに一万を超えた。
その一人一人の顔などおぼえられるわけはない。
(略)
彼はこの問題を、いかにも不精者らしく解決した。
後宮のなかを、彼は羊のひく車に乗って行く。
女たちはそれぞれ個室をもっている。
羊がとまったところで降りて、その部屋にはいることにしたのである。
皇帝の寵愛を得ようとした、頭の良い女性が、自分の部屋の戸に竹の葉をさし、部屋のまえの地面に塩をまいたのである。
竹の葉や塩は、羊の好物だったので、かならずそこで車はとまった。
水商売の店のまえに塩を盛る習慣は、このエピソードに由来する。
イタリア北西部の山間で、村人たちに信仰されている聖ベッソという聖者があります。
今世紀の初めR・エルツが親しく調査して、ほんの少し有名になりました。
(略)
聖ベッソの功徳は山の民の全生活領域に及びます。
住民の病気はもとより、家畜の疾病、魔女の呪いに効果があるほか、兵役除けに効験がある。
(略)
この種の加護は「地理的に明確な一点」、「聖ベッソの山」から発します。
標高2047メートルの山岳放牧地に高さ約30メートルに達する岩塊の露頭があって、そこに十字架と小さな祈祷所がある。
(略)
それなら、聖ベッソの来歴はどうかと申しますと、教会の公式伝説では彼はテーベ軍団の一員であったとされています。
辛うじて虐殺を免れた兵士ベッソはこの山国に来て伝道した。
牧童たちが主人の羊を焙っているのを見つけ、盗みの罪を説いたところ、立腹した牧童たちは彼を岩塊から突き落とした。
(略)
エルツがコーニュで採集した、公式伝説から一番離れた話はこうなっています。
ベッソは羊飼いの若者で、常に人里離れた山の放牧場にいて、神に祈りを捧げていた。
羊は彼の囲りに群れて、しかも丸々と肥っていた。
これを妬んだ邪悪な牧童が崖から突き落して殺した。
(略)
彼はさらに進んで、そもそもの源流は「聖ベッソの山」の岩石信仰だったのではないかと推測しました。
今でも年祭の岩めぐり行列は岩塊の神聖な性格を示しているというのであります。
住民の生活の源泉たる山地放牧場と、その上に屹立する巨大な岩塊。そして、よく肥って柔順な羊に囲まれた若者は、山の民のつつましい理想の体現だと言っています。
中世ヨーロッパの民衆の心性について考察がなされた「中世の奇蹟と幻想」から、羊飼いに縁があると思われる聖人のエピソードを。
このゲームは順番に動物の骨をひとつかみ空中に投げて、それらが落ちた位置によって点数を数えて遊ぶ。
前330年頃 材質:陶器 高さ:21センチ
以前、羊の距骨(アストラガロス)でお手玉をする少女が描かれたブリューゲルの「子どもの遊戯」をご紹介したのですが、古代ギリシャのテラコッタ像に、同じように遊びに没頭する少女たちの姿がありました。姿勢も同じ、女の子なのも同じ。遊び方は多少違うみたいです。
大聖堂の扉口には、ゾディアック(黄道12帯)と言われる1月から12月にわたる石による暦が出現している。
その12ヶ月の暦には、各々の月の仕事が対応して表現されている。
パリのノートル・ダーム大聖堂、ランス、アミヤンなど、代表的大聖堂は、全部石による暦と月々の仕事を持っている。
しかし、暦(12星座)に対応する月々の仕事は、各大聖堂によって異なる部分がある。
先日の、アミアン大聖堂の十二宮に続いて、シャルトル大聖堂西正面扉口の十二宮を。
エレアノール・オブ・モンフォールの家計簿は、十三世紀の城の家計がどのようなものであったかをうかがわせる貴重な資料である。
この家計簿はこの種の帳簿としては現存する最古のもので、ごく普通の一週間(1265年5月)に一家の切り盛りにいくらかかったかが詳細に記録されている(貨幣価値についていえば、十三世紀の熟練工に支払われる賃金は、日当四ペンス半―一シリングは十二ペンス、一ポンドは二〇シリング―が相場であった)。
日曜日、伯爵夫人とシモン・ド・モンフォールの殿および(伯爵夫人の供の)前述の者たちに供す―パン、一クオーターと二分の一。ワイン、四セクスタリー。ビール、計算済み。
〔厨房〕エヴァーリよりヒツジ六匹、牡ウシ一頭、仔ウシ三頭。獣脂八ポンド、十二シリング二ペンス。家禽六羽、三シリング。たまご、二〇ペンス。コムギ粉、六ペンス。賄い用パン、三ペンス。ガチョウ一〇羽、計算済み。
〔厩舎〕ウマ五〇頭用のまぐさ。オートムギ、三クオーター半。合計十七シリング七ペンス
中世ヨーロッパの生活誌から、十三世紀イングランド貴族の家計簿を。
中世ヨーロッパの人々の暮らしについては、これまでに、フランスのこどもの遊び、絵本「中世の城日誌―少年トビアス、小姓になる」、13世紀フランスの都市生活、15世紀のパリの物価、羊の角の窓ガラスのお話などをご紹介しています。
羊頭中空画像磚(がぞうせん) 中国 漢(前2?後2世紀) 高(H)58.0 幅(W)22.5×25.0
前面に大きな羊の頭がはり付けられ、上部には瓦屋根の軒がある。
前面や側面には方形の花文や斜格子の文様が印でおされている。
内面は中空で、後面には空気抜きの孔があけられている。
これほど立体的で写実的な造形は漢代には少ない。
墓室内部の門や壁面の装飾として作られたものであろう。「中国古代の建築とくらし」展カタログ
漢代の副葬品を。これまでご紹介した中国の副葬品については、こちらで。
朱儁(しゅしゅん)が言うには、「向こうは妖術使いだ。こっちも明日、豚・羊・犬を殺して血を集め、兵士を山の頂上にひそませておいて、賊軍が追撃して来たとき、高い坂の上からこれを浴びせかければ、魔法を破ることができるだろう。」
劉備はその命令に従い、関羽・張飛を差し向け、おのおの一千の軍勢を率いて山の裏側の高い岡で待ち伏せさせた。
その一方、豚・羊・犬の血と汚物を集め準備をととのえた。
翌日、張宝は軍旗をなびかせ太鼓を打ち鳴らしながら、軍勢を率い戦いを挑んできた。
劉備がこれを迎え撃ったところ、合戦の最中、張宝は妖術をつかいだした。
風や雷がはげしくおこり、砂が舞い石が飛び、黒気が天にみなぎったかと思うと、次から次に人や馬が天から下りてくる。
劉備が馬首をめぐらし一目散に逃げだすと、張宝は兵を駆り立て追いかけてくる。
山かどを通過しようとした瞬間、関羽・張飛の伏兵が合図の火砲を放ち、いっせいに汚物を浴びせかけた。
ふと見ると、紙で作った人間や藁で作った馬が、空中からバラバラと地面に落ちてくる。
風や雷も瞬時にやみ、砂や石も飛ばなくなった。
三国志演義です。冒頭、黄巾の乱平定の場面。妖術を祓うために羊(の血)が使われています。
このあたりのわかりやすい解説が荒俣宏のエッセイにありましたので、下に。
中国の場合、興味深い犠牲獣に、犬がいる。犬の血は、汚れたものを清める効果があると信じられたらしく、漢字学者白川静さんによれば、獣や哭(呪)や祓など「犬」の字が付く漢字の多くは、祭祀や儀式にかかわっているという。
(略)
羊は、これまた神の裁定を引きだすために欠くべからざる獣であった。
いったいどういう目的で生贄にされたかといえば、「善」や「義」、あるいは「祥」を導くためであった。
これらの漢字をよく見ると、すべてその一部分に「羊」の字が存在している事実に気づくだろう。
羊は、ものごとに「良い結果」をもたらそうとするとき、用いられた犠牲獣だったと考えられる。
「ノアの燔祭」と「ヤコブとラケルの出会い」の場面をご紹介している、ヴァチカン美術館のラファエッロの天井画をもうひとつ。ヤコブの子ヨセフを中心とする物語の一場面、「兄たちに夢の話をするヨセフ」です。旧約聖書の該当場面を下に。
ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。
(略)
兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。
ある時、ヨセフは夢を見て、それを兄弟たちに話したので、彼らは、ますます彼を憎んだ。
ヨセフは彼らに言った、「どうぞわたしが見た夢を聞いてください。
わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、私の束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、私の束を拝みました」。
すると兄弟たちは彼に向かって、「あなたはほんとうにわたしたちの王になるのか。あなたは実際わたしたちを治めるのか」と言って、彼の夢とその言葉のゆえにますます彼を憎んだ。
ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました」。
彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、「あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか」。旧約聖書 創世記第37章
ロンドンのナショナル・ギャラリーにある、「ウィルトン・ハウス・ディプティック」という祭壇画です。
十八世紀から二十世紀まで、英国の貴族の館「ウィルトン・ハウス」にあったので、この名で呼ばれます。
これも木の板にテンペラで描かれたもので、縦が五〇センチ足らずと小さなものです。
おそらく大きな聖堂に置かれたものではなく、私室や小さな個人礼拝堂のためのものでしょう。
蝶番で折りたたんで簡単に運べるので、戦場などにも持って行けるように作られたのかもしれません。
14世紀イギリスで作られた、小さな二連祭壇画です。左側パネルの、祈るリチャード二世の後ろに、羊を抱いた洗礼者ヨハネ。洗礼者ヨハネが描かれたものは相当数ご紹介しておりますので、こちらでまとめてぜひ。
展覧会を見に、京都まで行って参りました。
平成22年3月14日(日)まで、京都国立博物館で開催されている「THE ハプスブルク」展です。
阪急河原町駅から京阪に乗り換えて七条駅、そこから徒歩で十分足らず。ちょっと面倒な道のりですが、これを見るためですからしかたない(他の交通手段は京都国立博物館HPの場所・交通手段をご参考にぜひ)。これというのは、つまり、
バルトロメ・エステバン・ムリーリョと工房、「幼い洗礼者ヨハネ」です。
ムリーリョは、これまでに「貝殻の子供たち」、「羊飼いの礼拝」、「善き羊飼い」をご紹介しています。淡いもやを通して、みずから光り輝くようなこどもたち。
こちらの展覧会では、ハプスブルク家の肖像画を集めた一室があり、凛々しい女帝マリア・テレジアや華麗な皇妃エリザベートに誰もがためいきをつくことになるわけですが、ひつじ好きが見るべきものは彼女たちだけではありません。
神聖ローマ皇帝ルドルフ2世、神聖ローマ皇帝カール6世、オーストリア皇帝フランツ1世、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世。肖像画の中で、ハプスブルク家のあるじたちは、みなその胸に金羊毛勲章を下げています。要チェックです。
それはそれとして、グッズも買って参りました。
しおりとチャーム。使い勝手が良さそうなサイズです。