公冶長の説話。

ひつじ話

公冶長にはきわめて奇妙な特技があった。
つまり、さまざまな鳥のことばを理解することができた。
(略)
貧しい公冶長は、自分の家でぶらぶらしていて、生計の道がなかった。
ある日、雀が一羽飛んできて、公冶長の家のまわりを飛びまわりながらさえずり始めた。
公冶長、公冶長
南山に虎駝羊有り
爾 肉を食い、我 腸(はらわた)を食わん
当にすみやかに之を取るべし、彷徨うこと勿れ
公冶長は、雀の言うとおり出かけ、死んだ羊をみつけて持ち帰り、雀と分け合って食べた。
その後しばらくして、羊に逃げられた人が探しながら公冶長の家までやって来ると、壁にかかっている一対の羊の角が目にはいったが、まさに逃げた羊のものであった。
そこで、自分の羊を盗んだのは公冶長だと思い込み、魯の国君に訴えた。
国君が人を送って公冶長を取り調べると、公冶長は雀のことばを聞いたのだと釈明した。
しかし、国君は人が鳥のことばを理解できることを信ぜず、でたらめなはなしをでっちあげたとみなし、公冶長を投獄した。

袁珂の「中国の神話伝説」から、孔子の高弟である公冶長のエピソードを。
のちに雀に助けられて隣国の侵犯を撃退するに功があり、名誉は回復されるのですが、……でも、落ちてる羊を拾って食べちゃってるのは良いんでしょうか。

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『信濃奇勝録』より、「石羊」。

ひつじ話

巻之四 諏訪郡之部
石羊
矢ヶ崎村の北に永明寺山とて高く峙(そばだち)たる松山あり
此山南面の中腹に谷ありて大なる岩石数百累々たり
其石間に洞を作し穴をなす所多し
其下滴水小流をなす
此内に異獣ありて住り
大さ鹿のことく毛色も又鹿の如し
中に黒白の斑あり
頭ハ小し惣身毛長く垂れ四足を隠す
常に出る事稀なり
炎夏暴雨の後ハ出て蚯蚓を穿るか如し
村里近しといへとも見る者少し
たまたま見し者名つけて石羊と云又毛長貉被貉(かぶりむじな)など名づく
群をなすといへとも其数二十余に過すといへり

江戸末期の地誌『信濃奇勝録』に、「石羊」と呼ばれる生き物の記録があるとの由、ak様から教えていただきました。ありがとうございます。
さて、正体はなんなのでしょうね、これ。「伊豆海島風土記」のような、野良羊または野良山羊の可能性を考えてみたいところですが。

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各務原市、成田山貞照寺、川上貞奴の墓所。

ひつじ話

岐阜県各務原市にあるお寺さんまで行ってまいりました。
名鉄新鵜沼駅、またはJR鵜沼駅から車で五分、徒歩だと一時間弱の場所にある、成田山貞照寺です。

成田山貞照寺公式HP

日本初の女優として知られる川上貞奴が自らの菩提寺として建立した寺院で、奥まったあたりに墓所があるのですが、なぜかこのお墓を石羊が守っているらしく、これは見に行かねばと。
というわけで、案内板にしたがって本堂の脇を抜けていくと、
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このような場所が。
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そして石羊が二体。貞奴の干支が未であることにちなんだものらしいのですが、なんというか、剛毅です。
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石羊は、ひっそりとあちこちに点在しています。
これまでに、神戸市教育会館京都国立博物館、同じく京都の野仏庵東京国立博物館、やはり東京の根津美術館のものをご紹介しております。
ご縁があれば、ぜひ。

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「甲子夜話三篇」より。

ひつじ話

小鼓観世新九郎が家宝に、羊皮の鼓有り。
伝来を聞くに、台徳公より賜る所と云。
故新九郎(豊綿)語れるは、此鼓、時として不機嫌なること有り。
予問ふ。何をか不機嫌と云。
曰ふ。或とき、宮の御能の日、某脇能を打とき、調れども曾て鳴らず。
為方なく、代鼓を以て其能を打しが、不審晴ずして、御能畢ると楽屋に入て打みるに、其音亮亮として甚好し。
因て知る。此鼓不機嫌なることを。
頃日、当新九郎来る。就て復其ことを問ふに、違はず。
何にも前言の如し。又、此鼓皮黔色、尋常の鼓と異にして、見る所美ならずと。

江戸後期、松浦静山の随筆集「甲子夜話」のなかに、羊の皮の鼓のエピソードがありました。なんだかワガママな鼓ですが、皮の素材が珍しいことに関係があるのでしょうか。

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「誹風柳多留」(続き)

ひつじ話

ひさしふりひつじを喰ふとていし龍   (一〇篇・37)

傘をあら煮のよふに羊喰ひ   (一二二篇・4)
傘を天ぷらの氣て羊喰ひ   (一二六篇・65)

ひさしぶりに、江戸の川柳集「誹風柳多留」を広げてみました。
紙を食うイメージのとそれ以外のとで、二度ほどご紹介しているのですが、改めてもう少し。「ていし龍」というのは「国性爺合戦」の鄭芝龍のことだと思うのですが、どういう状況なんでしょう、これ。

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古代ローマの距骨遊び。

ひつじ話

会食者は食後に飲みはじめる。
「饗宴の王」を選び、「饗宴の王」は、勝手に会食者それぞれが飲むワインの杯数や品質を定めた。
話し好きの人たちが好んだひとときである。
温和な性格の人が「饗宴の王」となると、宵のパーティーでは、歓談や上品な娯楽(距骨遊び、大道芸人の寸劇、フルート奏者の伴奏による歌唱)を楽しむ。
(略)
しかし、「饗宴の王」が酒豪ならば、会食者は熱気に包まれる。
距骨遊びは子供の遊びと考えられていて、賽子─これは法律違反─が要求される。
※距骨遊び─羊、山羊などの距骨または、その模造品を使う、主として子供の遊び。四面に目が記された距骨を四個投げて出た目の合計を競ったり、八個の距骨を空中に投げ、手の甲で受け止めた個数を競ったりなど、種々な遊び方があった。

古代ローマ人の生活を活写した「古代ローマの日常生活」を読んでいたところ、晩餐を描いた場面に、羊の距骨を使った遊びについての説明がありましたので、引用を。
距骨遊び(アストラガロス、アストラガルス)のお話は時々しておりますので、こちらで。

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木瓜桐文緋羅紗陣羽織

ひつじ話

あけましておめでとうございます。今年もひつじnewsをよろしくお願い申し上げます。
さて、今年初のヒツジ話は、緋色の羅紗の陣羽織です。

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木瓜桐文緋羅紗陣羽織(伝 信長より秀吉拝領)
緋羅紗の地に白羅紗で木瓜紋と桐文とがはめ込んである。

「秀吉と桃山文化 大阪城天守閣名品展」カタログ

羊毛加工品である羅紗の羽織のお話は時々しているのですが、あまり具体例を挙げておりませんでした。この「木瓜桐文緋羅紗陣羽織」などが典型例になるでしょうか。

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W.H.デイヴィス 「羊」

ひつじ話

 ヰリアム・エーィチ・デーヴィス
昔、私がボルティモーアに居たとき、
ひとりの男がやつてきて叫んだ、
「来ないか、わしらは千八百頭の羊を載せて火曜日に出帆するんだが。」
「若いの、おまへが一緒に来て呉れりや五十シリングやるぜ。
千八百頭の羊をボルティモーアから
グラスゴウの町まで届けるんだ。」
かれは私に五十シリング呉れた、
私は千八百頭の羊をつれて出帆した、
船は間もなく港の口を離れ
深い大海へと乗りだした。
海の第一夜には
羊はこゝろ静かにしてゐた。
二晩目になると、かれらは恐れて啼いた、─
風の中に草の匂いがしないので。
可哀さうに、かれらは緑の野原を鼻で慕ひ
私が眠られぬほど高く啼きつゞけた、
五万シリング呉れよとまゝよ、
二度と羊と船出はせまい。

西條八十の訳詩集「白孔雀」より、ウィリアム・ヘンリー・デイヴィスの「羊」(原題「Sheep」)を。

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ビッグホーンが家畜にならなかった理由。

ひつじ話

「家畜化の候補となりうる」陸生の大型草食動物は148種類である。
しかし、人類の歴史を通じて、実際に家畜化されたのは、この148種類のうちの14種だけである。
残りの134種は、どうして家畜化されなかったのか。
(略)
序列性のある集団を形成しない問題
実際に家畜化された大型哺乳類は、どの種類も、つぎの三つの社会性を共有している
─群れをつくって集団で暮らす。集団内の個体の序列がはっきりしている。群れごとのなわばりを持たず、複数の群れが生活環境を一部重複しながら共有している。
(略)
ほとんどのシカやレイヨウのように群れをつくって暮らす動物の多くは、はっきりした序列を集団内で持っておらず、リーダーを本能的に刷りこみ記憶する習性がない(したがって、人間を群れのリーダーとして刷りこみ記憶するようなこともない)。
シカやレイヨウを飼いならすことはできるが、羊の群れのように飼いならされたシカやレイヨウの群れを見たことがある人はいない。
まったく同じ理由で、現在の羊の祖先にあたる中央アジアのムフロンと同属の北米産のビッグホーンも家畜化されていない。
ビッグホーンは、ムフロンと同様、家畜にはうってつけの条件をひとつだけ除いてすべて備えている。
ビッグホーンは、ムフロンとちがい、自分より序列が上と認識したメンバーに服従するという習性を、種全体として持っていないのである。

先日、横浜市立金沢動物園に行ってから、家畜化された原種とオオツノヒツジ(ビッグホーン)のような種とはなにが違ったのだろうとぼんやり考えていたのですが、『銃・病原菌・鉄』の中の一章「なぜシマウマは家畜にならなかったのか」に、ものすごくわかりやすい説明がありました。そ……そこまで明快な理由なんですか?

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ヴァリニャーノ 「日本巡察記」

ひつじ話

国土は、ある地方では彼等の主食である米を産し、また麦もとれるが、他の地方は不毛の山岳地帯となっている。
(略)
牧畜も行われず、土地を利用するなんらの産業もなく、彼等の生活を保つ僅かの米があるのみである。
(略)
彼等の食物と調理法については、材料の点でも、味の点でも、まったくヨーロッパのものと類似するところがない。
結局、彼等の食物に慣れるまでは多くの努力と苦痛を経なければならぬ。

オールコック「大君の都」「サムライ洋食事始」の、幕末の食文化を巡るあれこれに関連して、もう少し。
もっと昔に日本にやってきた西洋人もなにか言っているのではないかと、イエズス会宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの「日本巡察記」を開いてみました。
牧畜が行われていないというのは、特記するようなことなんですね、やっぱり。

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江戸期における羽織の歴史。

ひつじ話

1616年、日本に羊毛製品を持ち込んだ英国商館員の本国への報告にあるように
「日本人は、黒、赤などの原色を好み」中間色の毛織物はほとんど売れなかった。
従来の衣生活にはなかった黒と猩々緋の染色のものが、舶来好みとして強烈に志向されたのであった。
少し時代が下がると、羽織に袖がついてくるようになった。広い短い袖である。
袖のついた羽織─つまり陣羽織は、いずれも舶来の毛織物や天鵞絨地である。主体は羅紗である。
上の者が豪華に装えば、下の者もこれに倣って豪奢の風を追う。
羅紗の羽織は一般武士も着用するようになっていった。
一見、陣羽織風ではあるが、豪華な「縫取り」模様はなくなって、やがて無地に近くなり、代わりに、背中に大きな家紋がつけられた。
(略)
羽織は道中の服であり旅行用のものであったが、広く一般に重宝がられて普及すると、道中だけでなく、室内の座敷着として、これをつけて客人と応対するようになり、江戸末期になると、これに袴を加えて一対となして、それを「羽織袴」と称するようになった。
高貴の人や主君の前では羽織は着用しなかったが、それ以外の一般の場合には、これが正装となり、また礼服となった。
布地としては、いろいろ使われたようだが、羊毛加工品は依然として衰えていなかった。

緋羅紗地丸紋付陣羽織白羊毛皮付き羽織、はたまた司馬遼太郎の「胡蝶の夢」などで、江戸期に普及した羊毛の羽織のお話をしているのですが、「羊毛の語る日本史」にわかりやすい解説がありましたのでご紹介です。

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ヴィクトリア朝英国の羊肉料理。

ひつじ話

さて、《名馬シルヴァー・ブレイズ》事件のテーマのひとつは事件当日の月曜日の夕食に登場した、「(アヘン入り)マトンのカレー料理 ”curried mutton”」です。
調教厩舎のあるキングズ・パイランドでは羊を飼育しているので、調教師のストレイカー宅では日曜日のディナーのメイン料理は「ロースト・マトン」であることも多いでしょう。
(略)
必ずローストした残りの肉がある月曜日に、夫のストレイカーはアヘンの味を隠すために「マトンのカレー料理」をリクエストしたのでしょう。
(略)
『ビートン夫人の家政読本』に載っている「マトンのカレー料理」の材料と作り方は、
材料: 冷肉の残り物のマトン、玉ねぎ2個、パター0.25ポンド、カレーパウダーと小麦粉を各デザートスプーン1、塩、スープ1パイント
作り方: スライスした玉ねぎをバターで炒め茶色になったら小さく切ったマトンを入れる。この中にスープをいれてカレーパウダー、小麦粉そして塩を入れてできあがり。

「サムライ洋食事始」「大君の都」をご紹介したところで、さて、ではオールコックがそこまで焦がれた羊肉料理とはなんだったんろうと、「ヴィクトリア朝英国の食卓と生活」を繰ってみましたら、
以前ご紹介したシャーロック・ホームズシリーズの一作「白銀号事件」に出てくるマトンのカレー料理について、一章がさかれていました。ちょっと美味しそうです。

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ニザーミー・アル=アルーズィー 「四つの講話」

ひつじ話

イスマーイールの卒中の治療
マリク・シャーの治世とサンジャルの治世の一部分にかけて、ヘラートにアディーブ・イスマーイールという哲学者がいた。
彼はきわめて優れ、学識がある完全な男であったが、生計を医師としての収入で立てていた。
彼はいくたの珍しい治療を行った。
ある時、彼が屠殺市場を通りかかると、ある屠殺人が、羊の皮を剥ぎ、時どき羊の腹に手を入れ、温かい脂肪を取り出して食べていた。
イスマーイールはこの様子を見て、向かい側にあった八百屋にむかい、
「もしあの肉屋が死んだら、埋葬する前に私に知らせてくれ」と言うと、八百屋は「承知しました」と答えた。
(略)
その時八百屋はイスマーイールが言ったことをふと思い出し、駆けて行って彼に知らせた。
するとイスマーイールは、「死ぬのがおそすぎるぐらいだ」と言って、
杖をとり、その家に行き、死人の顔から布をとり、
(脈を手にとり、「杖で死人の足の裏をたたけ」と命じ、しばらくして「もう十分だ」と言った)。
それから彼は卒中の治療にとりかかった。

12世紀のペルシア散文文学「四つの講話」から、医師に関わる逸話を。
温かい脂肪……たしかに体に悪そうです。

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幕末と西洋料理。

ひつじ話

開国前夜の西洋料理─ペリー主催の饗宴
アメリカ側全権の東インド艦隊司令長官マシュー・C・ペリーは日米和親条約の調印日を前にした2月29日、自分たちの主張がほぼ盛り込まれる見込みがついたとして、ポーハタン号に日本側の関係者を招いて大饗宴を催した。
(略)
コックは甲板で飼育されてきた牛、羊、鶏をはじめ、ハムなどの貯蔵肉、魚、野菜、果物などを惜しみなく使って極上の料理を用意した。
(略)
ただしどれだけの日本人が味わいながら食べていたのかは疑問である。
現にアメリカ人記者も日本人が積極的に料理を口にしたのは、旨いからというより、物珍しさや好奇心によるものと見ており、その証拠に日本人たちがテーブルに運ばれてくる料理や果物などについて一つずつ、その名前を知りたがり、全部味見をしたことからも明らかだとしている。
太平洋を渡った170名
和親条約に続き、通商条約の交渉が始まり、それが締結された後に初めて幕府の使節団が海を渡ったのである。
(略)
艦内での食事は朝8時と午後2時の2回と決められていた。
医師の村山伯元(31歳)は出港直後の食事内容を次のように記している。
「1月19日、羊肉・雉子、ジャガタラ芋煮つけ、米国の酒、飯は邦米なり、茶は砂糖を入、味殊によし」(『奉使日録』)
その後の使節団
徳川昭武が兄の将軍・慶喜の名代としてパリ万博開会式に出席するため、随員28名を伴い、横浜を発ったのは慶応3年1月11日である。
(略)
随行した渋沢篤太夫(のちの栄一)が食事内容を細かく書き留めている。
(略)
「同10時頃にいたり、朝餐を食せしむ。器械すべて陶皿へ銀匙、並銀鉾、包丁等を添へ、菓子、蜜柑、葡萄、梨子、枇杷、其の他数種、盤上に羅列し、随意に裁制し、食せしめ、又葡萄酒へ水を和して飲しめ、魚、鳥、豚、牛、牝羊等の肉を烹熟し、或は炙熟し、パンは一食に二、三片適宜に任す。」

以前、オールコックの「大君の都」で、幕末の日本にやってきて、羊肉を手に入れられずに苦しむ西洋人の様子をご紹介したのですが、では初めて羊肉料理と出会った日本人たちはどんな反応を示したのだろうと、「拙者は食えん!―サムライ洋食事始」を見てみました。
タイトル通りに「食えん!」となったエピソードも山盛りでしたが、意外に屈託のない人たちの姿も目立ちます。

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橘南谿 「東西遊記」

ひつじ話

又、長崎にたまたまやぎという獣あり。
其形羊に似て色黒く、毛ながきもの也。
薩州鹿児島にも是あり。
隅州の内にはやぎの牧ありて、多く育てりという。
何の用になすものにや知らず。

江戸後期における羊飼育についてご紹介したときに触れた、橘南谿の紀行「東西遊記」から、羊に関する一文を。

記事を読む   橘南谿 「東西遊記」

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