前1500?前800年 テヘラン州フルヴィン出土
磨研土器 高……17.3 長……21.0
写実的に表現された頭部に対し、四肢は抽象的に表現される。背部には吊手をもち、胸には液体を注ぎ出すための小孔が穿たれている。
前1千年紀前半の動物形土器には雄性を強調した例が数多くみられるが、本作も大きく反り返った角をもつ、成熟した牡羊が表現されている。
イラン国立博物館所蔵の形象土器です。
「ペルシャ文明展」は、現在、大阪歴史博物館で開催中です。9月17日まで。
ひつじ(ヒツジ、羊)のニュース、画像(写真)、グッズ、サイト、牧場などを紹介するひつじサイト。あなたの好きな羊もたぶん見つかります。
前1500?前800年 テヘラン州フルヴィン出土
磨研土器 高……17.3 長……21.0
写実的に表現された頭部に対し、四肢は抽象的に表現される。背部には吊手をもち、胸には液体を注ぎ出すための小孔が穿たれている。
前1千年紀前半の動物形土器には雄性を強調した例が数多くみられるが、本作も大きく反り返った角をもつ、成熟した牡羊が表現されている。
イラン国立博物館所蔵の形象土器です。
「ペルシャ文明展」は、現在、大阪歴史博物館で開催中です。9月17日まで。
羊
(略)
唐山ニテハ畜テ食用ニ供ス。本邦京師ニハ畜者ナシ。他州ニハ畜処モアリ。皆漢種ナリ。稀ニ観場二出ス。形馬二比スレバ小サク、狗二比スレバ最大ナリ。多クハ淡褐色ナリ。白色ノ者モアリ。頭ハ略馬二類シテ短シ。喉下ヨリ胸二至テ長毛アリ。喜デ紙ヲ食フ。
江戸後期の本草学者小野蘭山が行った、「本草綱目」講義の講義録です。…ちょっとヤギの話をしてる気もしますが。そしてやっぱり紙を。
むかし、一人の召使いの女がいた。いつも主人のためにもっぱら麦と豆を炒る仕事をしていた。主人の家には一頭の羊がいて、すきを狙っては麦と豆を盗み食いしたので、量目が減って、主人に叱られてばかりであった。 (略) そのため女はいつも羊を憎み、しょっちゅう杖で引っぱたいていた。そのため羊も腹を立て、角で彼女を突いてくるのであった。 (略)
ある日、召使いの女が素手で火を扱っていたとき、羊は彼女が杖をもっていないのを見て、女に向かって突きかかってきた。女は、とっさに手にした火を羊の背に押しつけた。羊は熱がって、ところかまわず突き当たったので、火はまき散らされて村人を焼き、山野にまで延焼してしまった。山中には五百匹の猿が住んでいたが、そこにも火は燃えさかり、逃げるひまもなくて、みるみるうちにみな焼死してしまった。
天人たちはこれを見て、こう偈を唱えた。
瞋恚と闘諍のあるところ
中途にて歯止めは利かず
羊と婢との闘いに
村人と猿は死に絶えたり「中国古典文学大系(60) 仏教文学集」
大量の説話が詰まった仏教経典である「雑宝蔵経」の中の一話です。説話によって教義を学ぶことが本来ではあるのですが、お話のインパクトが大きすぎて、なんだかそれどころじゃなくなりそうです。
日本における華厳宗中興の祖として有名な高弁(明恵)は、十八歳(1191年)のときから死の二年前、1230年にいたるまで、40年間にわたってみずからの夢を記録しつづけた稀有の人物である。その『夢の記』承久二年(1220)九月二日の項にいう。
「大きな空に羊の如きものあり。変現きわまりなきなり。或るは光る物の如く、或るは人体の如し。冠を著け貴人の如く、たちまち変じて下賤の人となり、下りて地にあり。その処に義林房あり。これを見てこれを厭い悪む。予の方に向いまさに物言わむとす。予、心に思わく。これは星宿の変現せるなり。予、これを渇仰す(以下略)。」
(略)
生息しないヒツジを高弁は視覚化することができただろうか。
(略)
全般に古代・中世の日本において、ヒツジ・ヤギの両者とも羊と書かれヒツジとよばれていたようである。『和名類聚抄』(源順、930年ごろ)、『類聚名義抄』(十二世紀)のいずれを見ても、羊はヒツジと訓まれ、ヤギの項はない。『日本書紀』皇極紀、および『本草和名』(深根輔仁、920年ごろ)に山羊が登場するが、その訓はカマシシであり、カモシカを指す。
ヒツジのみならずヤギもまた、日本においては原産せず、飼育もされなかった。したがって高弁がヤギを直接観察した可能性もきわめて少ない。ところが彼が手にとって見る機会があったと思われる絵画にヤギらしい動物が描かれている。
『鳥獣人物戯画』乙巻(十二世紀なかば)には(略)、よく知られているとおり高山寺の朱印が捺してある。そして高山寺を創建したのは、ほかならぬ高弁であった。
中村禎里「日本動物民俗誌」の「カモシカ」の章にある、明恵上人が夢に見た「羊の如きもの」についての考察です。上人が見た「羊」のかたちは、おそらく「鳥獣人物戯画」のほぼヤギの姿をした「羊」であろう。さらに、「戯画」のこの動物は、シカやカモシカを参考にして描かれたものだろうというお話なのですが、たしかに、いろいろ混ざってそうです。どちらにせよ、不思議な夢ではありますが。
かれの聖遺物崇拝熱、巡礼や祭列によせた熱情には、なにか崇高な感情、敬いのあまりの慎みといったようなものは、そのかけらもなかったかのようである。
(略)
ルイ王の蒐集熱には、その対象がめずらしい動物、たとえば馴鹿、大鹿のたぐいだろうが、貴重な聖遺物だろうが、なんでもかまわないというところがあった。
かれは、フィレンツェ地方の聖者、聖ザノビの指環だとか「神の子羊」なるものなどについて、ロレンツォ・デ・メディチと文通をかわしている。
「神の子羊」というのは、別名「スキティアの子羊」とも呼ばれ、アジア原産のしだの幹を材料に彫られたもので、ふしぎな功徳があるとされていたしろものである。
ヨハン・ホイジンガの「中世の秋」の一章、「信仰生活のさまざま」のなかに、植物羊の伝説と関わりがありそうなエピソードがおさめられています。
聖遺物蒐集に情熱を傾けたルイ11世が、「神の子羊」に関心を持っていたというものですが、ここでのそれはシダの細工物のようです。・・・タカワラビ?
ワタの木に関する初期の、事実に即したこれらの記述が、植物=動物の合成物、「スキタイの植物羊」という完全なお伽話へと発展していく過程をたどると、それは他の中世の伝説の場合と同様に、次のような二つの主要な理由に帰することができる。
(1) 多義的な、あるいは比喩的な言葉の解釈の誤り
(2) 二つの、実際は異なる物体の、外見的な類似
今まではこの問題との関連があるとは気づかれなかったと思うのだが、先に引用したテオフラストスの節の中で、ワタの木の熟していない朔果の形と外見を描写するのにまことに適切に使われているギリシア語のメロンという言葉が、「果物」とも「リンゴ」とも「羊」とも訳すことができるという事実は興味深い。
またそこに使われている形容詞は、「春の、若い」という意味である。したがってその一節は、植物の羊毛は木になる「春のリンゴ」から取られたとも、木になる「若い羊」(すなわち子羊)から取られたとも、解釈できる。
(略)
しかし何世紀かの後に、この植物については何の知識も持たない読者たちが、死語となったラテン語を読んだとき、彼らが「木からできる羊毛」の性質について誤った考えを抱いてしまう可能性に、この転換可能な解釈を許す曖昧な一節が、何の寄与もしなかったとは言えないのである。白い羊毛の柔らかい毛は、春に育った幼い子羊に生えているほうが、春にはまだ一部しか形成されず熟していない状態のリンゴのような果実の中に見出されるよりは、ずっと自然なことに思われる。
(略)
また、このギリシア語の「メロン」という言葉の使用が、後になってこの「植物=子羊」を生む植物の種子がメロンやヒョウタンのそれのようであるという報告を生んだ可能性もある。
こちらの「スキタイの子羊」には、1887年にヘンリー・リーによって著された植物羊に関する考察「タタールの植物子羊―ワタの木の不思議な伝説」が収められています。
リーは、この怪物の正体をワタの木であると結論づけ、ラテン語の誤読説によってそれを説明しています。やや突飛な気もするのですが、訳者によるあとがきでは、「実体やイメージを伴わない「ことば」や「概念」が先行し、それを後から図像化するときに怪物的なものが産まれるのは、よくあることである。」との解説がなされています。
ブロンドがぼくに言った、「お名前は?」
「ドナルド・ラムです」
「L・a・m・b?」
「いや、L・a・m」とぼくは言った。
彼女は名前を書きとめると、こんどはぼくの観察にとりかかった。
(略)
「法の盲点をつくトリックを、あんたはまだほかに知っているのかい?」と夫人はたずねた。
「いくらでもありますよ」
「ドナルド、おねがいだから、タバコに火をつけて、わたしの口にくわえさせておくれ」
法廷ミステリの王者E.S.ガードナーの、私立探偵クール女史と助手のラム君シリーズの第一作です。名前も外見もカワイイけれど性格と持ってる能力がまったくかわいくないラム君が、外見も性格もかわいくないクール夫人とコンビを組むまでの一部始終。
紋章芸術においては、子羊は「過越しの子羊」の姿で現れる。
子羊は右足(しばしば誤って左足)で、やや斜めに傾いた十字架の柄の端を跨いでいる。そこから赤い十字紋様のある銀色の銘句帯が掛けられている。銀色は「過越しの子羊」の定色である。
また多くの場合、子羊は首を後ろに振り向けた姿で描かれる。
「キリストの紋章」でご紹介した子羊のポーズについて、「動物シンボル事典」の「こひつじ」の項をひいてみました。デューラーの版画をご紹介したこともありますね。類例が多そうなので、追々探してこようと思います。
前5?前3世紀
毛
1枚 78?×55?
チェルチェン県 ザーホンルック1号墓地3号墓
1985年出土
褐色の毛織物。白・黄・赤の毛の緯糸で下段に大きな角をもった羊文様、全面には漢字の「五」に似た三角形を2つ合わせた蝶形を散らし、さらに中央には駱駝のような動物文を織り出している。「新シルクロード展 ―幻の都楼蘭から永遠の都西安へ―」カタログ
タクラマカン砂漠の南、西域南道のオアシス都市チェルチェンで出土した毛織物です。
ずいぶん以前にご紹介したファン・エイク兄弟の「神秘の仔羊の祭壇画」(「ヘント祭壇画」)。前回はパネルを開いたところのご紹介だったのですが、閉じたときの、外側のパネルにも羊がいました。彫刻のような単色画の洗礼者ヨハネです。
神・ダイがここに住む。その状は人面の如く、羊の角、虎の爪。つねにスイショウの淵に遊び、出入するときは光を放つ。
ながらくひっぱってきた「山海経」のひつじシリーズも、このあたりでいったん打ち止めを。最後は、中山経に出てくるダイです。
殷・後期
高37.5、口径31.8、深26.7?
瓿(ほう)も酒を入れておく器。本器は強く肩が張り、そこに大きな浮き彫り状の羊の犠首(ぎしゅ。いけにえの首)と、薄作りの鳥形鰭飾りとが交互に並んでいるのが特徴である。
殷の青銅器です。台北の故宮博物院蔵。羊の目がつぶらでかわいい・・・かも。
でもまだまだおどろいてはいけません。なぜって“はてなし牧場”には数えきれないほどの牛や馬が飼われていたのです。とくに羊は牧場主のお気に入りで、たいせつにあつかわれていました。
パブロ・ゴンサレス作、フリエタ・V・ワールマン絵の絵本です。南米の広大な牧場を舞台にした昔話。主人公の牧場主が変で良いのです。
中世末期、社会変動の嵐が広くヨーロッパをおおっていた時代に、フランスではヴァロア朝の宮廷文化が花開いた。聖職者階級にかわって台頭し始めた王侯貴族たちは、芸術の擁護者として大きな役割を担う。
フランス国王ジャン二世の第三王子ベリー公ジャンは、三百冊近い写本を有した稀代の蔵書家として知られ、公の注文によってランブール兄弟の制作した『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』は、当時を代表する彩飾写本の白眉である。
特に冒頭の月暦図には、初期中世以来の農事暦の伝統が清新な自然景の中に描き出され、上部の半円形の部分を飾る太陽神と黄道十二宮の星座と共に、中世の「時」の図像として雄弁に時代を物語る。
7月の毛刈りの図をご紹介したことのある「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」の、2月の図です。
李公はふしぎの思いをして、いくらかこの僧を信用するようになり、そこでたずねてみた。
「南へ行く運命がまことに避けられぬとすれば、そのまま帰れなくなるであろうか」
すると僧は、
「お帰りになるはずでございます」
李公がそのわけをたずねると、僧は答えた。
「閣下には一生に一万匹の羊を召しあがるはずでございます。今までに召しあがったのは九千五百匹ですから、お帰りになるはずと申したのは、五百匹の羊がまだ残っているためです」
以前、「柳毅伝」をご紹介したときに参考にした「唐代伝奇集」ですが、こんな羊ばなしも。
左遷された元宰相の李徳裕が、有徳の僧に自分の運命をたずねます。結局このあと羊五百匹を送られて、うっかり受け取ってしまい、南の地に没することになるのですが、・・・それ以前に、どう考えても食い過ぎです。