1770(明和7)年、源内は二度目の長崎行のおり数頭のヒツジを買い入れ、これを郷里志度の知人へ送り飼育を依頼している。その後、志度で羊毛を紡ぎ、試職にも成功してこれを「国倫(くにとも)織」と名づけている(国倫は彼の号)。しかしこれに関する資料となるとつぎの二点しか見当らない。
第一は、源内が郷里の知人金次郎へあてた手紙(日付不明)の中のつぎの文である。
「羊四頭無事の由、わらを多食候も臓腑を巻き死候間、わらを食わせぬように可被成候」(『源内全集』)
第二は、1777(安永6)年刊行の彼の戯作『放屁論 後編』中のつぎの文である。
「我は綿羊を見て、日本にて羅紗、……毛氈類の毛織を織らせ。外国の渡りを待たず。用に給せんと心を砕き。……」
たぶん四頭分の羊毛で紡績から製織までやったのだろう。
(略)
明治初年のことになる。大久保利通は薩摩藩士岩山敬義をアメリカへ派遣して牧羊を研究させたが、岩山の帰国時には約1000頭のヒツジを持ち帰らせている。受入地としては三里塚(いま成田空港のあるところ)をえらび、ここで得た羊毛を千住製絨所(いまはない)へ持ちこんで、ラシャをつくる予定であった。数年後にはすべてを輸入原毛に頼ることに変わっていく。
源内の時代から三里塚の牧羊まで100年のへだたりがある。
江戸期のウール産業についてと、それに絡んで平賀源内の「放屁論」をご紹介しましたが、さらにもう少し追加を。
明治になって、ウールはそれまでの贅沢品から軍需品になりました。いきなり1000頭です。