山海経のシンヨウ

ひつじ話

シンヨウ
獣がいる、その状は羊の如くで馬の尾、名はシンヨウ(大羊)、その脂は昔(セキ。正しくはにくづきが付く。ひび)をいやすによろし。

土螻ホウキョウ葱聾ときて、「山海経」の羊っぽいなにかも4頭目。西山経の冒頭に上記の説明があります。脂肪であかぎれを治す、というのは、なんだかリアルです。
ヘロドトスの『歴史』や『本草網目』や、世界のことわざや、中国の玉の呼び名を見ると、羊の脂肪はとても重宝されているようですから、なにかもとになる事実があるのでしょうか。

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新約聖書の羊飼い

ひつじ話

あなたがたはどう思うか。 ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。

 マタイによる福音書 第18章 12?13 

「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。 いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。

 ルカによる福音書 第15章 4?6 

わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。

 ヨハネによる福音書 第10章 11 

先日お話しした、羊をかつぐ善き羊飼いについての説明にあった、「福音書や初期のキリスト教文書の多くの章句から引き出された、明確な解釈」の具体例を抜き出してみました。すべて、福音書中でイエスの言葉として記されているものです。たいへんそうです、羊飼い。

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和漢三才図会

ひつじ話

和漢三才図会の羊
中華から到来し飼っているがまだ繁殖しない。たわむれに紙を食べさせると喜んで食べる。 (略)
陸佃は次のようにいう。 (略) 羊は角があってもそれを用いず、あたかも仁者のようである。執られても鳴かず殺されてもほえないのは、あたかも義に死するもののようである。仔羊が親羊の乳を飲むときには必ず跪くが、これはあたかも礼を知っているもののようにみえる、と。 (略)
『本草綱目』に載せている羊の類は大へんに多い。 (略)
地生羊   西域に産する。羊の臍を土中に種え、水を灌ぐ。雷を聞くとそこから羊が生まれる。臍と地とは連なっていて、生長した羊を木で音をたてて驚かすと臍は切れて歩けるようになり、草を食べる。秋になるとこの羊を食べればよい。臍の内にまた種がある。瓏種羊という。
墳(正しくは羊偏)羊   土の精である。その肝は土である。雌雄あるがどちらも食用とはならない。季桓子(春秋時代の魯の大夫)曾て土を掘ってこれを得たという。 また千歳になる樹の精も青羊となるという。

和漢三才図会は、江戸中期の絵入り百科事典です。現在の眼で見ると、「われわれの先祖が(略)どのような眼で動物たちを眺めてきたかという歴史的・民俗学的な、いわば人文科学的な関心を提供してくれるもの」(巻末解説より)ではあるのですが、たまに著者本人がいろいろ実際に試してそうな気がします。羊に紙を食わせるとか。「猫」の欄には、「鳥貝のワタを食べれば耳が欠け落ちる。しばしば試してみたが本当であった。」とかありましたし。しばしばって。

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スコットランドの悲劇

ひつじ話

日経記事内イラスト
スコッチウイスキーで有名なスコットランド。ここは男女とも心筋梗塞による死亡率が西ヨーロッパでもトップクラス。平均寿命も短い。 (略) 
島中に広がる牧場では、たくさんの羊たちが放牧されている。昼夜、季節に関係なく放っておく方が毛深くなり、良いウールがとれるそうだ。
しかし、この環境が健康にはよくない。どうしても運動不足になりがちで、肥満が増える。一日中、羊を追い回し草を求めて遊牧するマサイの人たちとは対照的だ。
食生活も主に羊の肉を焼いて食べていた。肉はたくさん有り余っているため、内臓などを食べる必要にも迫られない。 (略)
一方で野菜を口にする頻度は極端に少ない。スコッチウイスキーの香り付けに役立つ泥炭(ピート)は野菜栽培に向かない土だ。一年中、寒く日照りも少ないため、木が育たず、新鮮な野菜や果物を食べるという習慣がない。 (略)
「野菜は羊が食べる草だから口にしない」というスコットランド人はコレステロールが低めでも心臓死が多い。

カーター卿さんから、日経新聞の切り抜きをいただきました。ありがとうございます。
2006年8月27日(日)付けの、「Sunday Nikkei α  食と長生き スコットランドの悲劇 <上>」です。 
悲劇・・・。いや、悲劇は悲劇なんですが。

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マンデヴィル「東方旅行記」

ひつじ話

カタイから大小のインドへむかう人はカディルヘと呼ばれる、大きな王国を通りぬけるだろう。そこには、ひょうたんのように大きな果実がなり、熟したものを割ると、中に肉も血も骨もある獣が一匹はいっている、それはまるで毛のない子羊みたいである。その国の住民はこの獣も果実も食用とするが、まことにふしぎなことである。

14世紀に著された架空の旅行案内記、マンデヴィルの「東方旅行記」第29章「カタイ国の彼方にある国々や島々。ふしぎな果実。山の中にとじこめられたユダヤ族。怪鳥グリフィンの話」の冒頭に、植物羊の話があります。前にご紹介した植物羊二態のひとつめの絵のほうですね。
架空の旅行記なので、多くの典拠が存在します。それについては翻訳者による解説で説明されていますので、下に。

その主要な出典は、1264年に没したフランスの学者ボヴェのヴァンサン Vincent of Beauvais の百科事典
である。この膨大な著作は『世界の鏡』 Speculum Mundi と題され、自然 Naturale と教義 Doctrinale と歴史 Historiale と道徳 Morale の四部から成っていた。そのうちマンデヴィルが利用したのは、自然の鏡 Specullum Naturale と歴史の鏡 Speculum Historiale であった。 (略)
マンデヴィルの典拠として、つぎに最も重要なのは、ポルデノネの修道士オドリコ(またはオデリコ) Friar Odoric of Pordenone の『東洋紀行』 Descriptio Orientalium Partium であった。 (略) 東方旅行記の大半は、時にそっくりそのまま、オドリコから借用したものである。あまりに共通点が多すぎるので、ある時期には、ふたりはいっしょに旅行したとも信じられた。

ヴァンサンにもオドリコにも、植物羊についての言及があります。ヴァンサンのほうは、臍で地面につながっているタイプのようですが。二態のふたつめの絵ですね。
関連情報として、レオ・レオーニ「平行植物」タカワラビ「ぷよぷよ通」ボルヘス「幻獣辞典」を、以前にご紹介しています。

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宮中に来たひつじたち

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羊は古くは推古天皇七年(599)九月、百済から二頭が来たと『日本書紀』に記され、平安時代にもしばしば朝鮮半島や中国大陸から渡来している。性質が穏和で小柄なため航海に耐えたからであろう。多くは宮中に進献され飼われたようだが、その末期には一見後に返却された場合がみられる。
『百練抄』には、「承安元年(1171)平清盛が院の御所に羊五頭をつれて来たが、三か月ほどで返却された。これは近ごろ流行病があって人びとはこれを羊病と呼んだ。それは仙洞御所に三頭羊を飼っているためだと噂されたからである」と記されている。
果たして羊が病気を媒介したか否かはともかく、羊が渡来するのと時を同じくして人の往来や貿易のはげしくなった大陸から病気がもちこまれたことは確かであろう。

・・・・あとの二頭はどうなったんでしょうか。

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善き羊飼い

ひつじ話

善き羊飼い 
この彫像や他の同類の作品は、元々は石棺の角を装飾する高浮彫りとしてつくられたか(その後18世紀に再加工される)、あるいは稀少なケースとして、テーブルなどの脚部として制作されたのではないかと推測されている。
この複合的作品は、自然主義スタイルでつくられているものの、その象徴的価値をはっきりと感じとることができる。事実、この羊飼いの像は、信者たちの群れの救い主としてみなされていたキリストを想起させる。
この作品の図像形態は、元来ギリシア・アルカイック時代において、「クリオフォロイ(供物の子羊を担ぐ男)」として知られた一連の彫刻から発生し、ヘレニズム時代とローマ時代には、供儀の場面や牧歌的情景描写のなかに登場した。そして、最後に初期キリスト教美術において、福音書や初期のキリスト教文書の多くの章句から引き出された、明確な解釈を与えられることになったのである。

ピウス・キリスト教美術館所蔵、3世紀末から4世紀初めの彫像です。前にご紹介した望月通陽氏の作品は、こうしたところからイメージを得られたものでしょうか。

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エジプトの神 アモン・ラー

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アモン・ラー
 中王国から新王国の時代にかけてエジプトの都がテーベになると、ラーはこの町の神だったアモンと同一視されて、アモン・ラーと呼ばれ、雄羊の頭を持つ姿でも表されるようになる。カルナクの有名なアモン・ラーの大神殿の参道に並べられた雄羊の頭のスピンクスの列は、各々がアモン・ラーを表わしその霊を宿すと見なされていた。

 本来はテーベの地方神に過ぎなかったが、第12王朝がテーベを首都として統一王国を作った時に、全国へと崇拝が広まった。ヘリオポリスの最高太陽神レー(ラー)と融合され「アモン・ラー」と呼ばれ神々の王とされた。「見えざる者」の名の通り、神々の前にさえ姿を見せず、シューに懇願されたときでさえ雄羊の毛皮と頭をかぶった変装した姿で現われている。(略)
 はじめは羊頭の神として表されたが、中王国以後は一対の長い羽飾りを頭に載せ、顎鬚を垂らした人間として表された。聖獣は雄羊とナイルの鵞鳥。

羊頭のスフィンクスは以前紹介しましたが、そのアモン・ラー神。
なんで微妙にヘンな格好なんでしょうか。

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羊頭形のアッティカ赤像式リュトン

ひつじ話

羊頭形リュトン
リュトンとは、動物の湾曲した角に想を得てつくられた杯で、当時、おそらく実際に飲酒のために使用されていたらしい。アッティカ製の陶器のリュトンの形は、先端部がサティロスか動物の頭部の形につくられている。 (略) 一説では、牡羊はオデュッセウスのポリュフェモスの洞窟からの逃亡を想起させ、酒にまつわる魂の救済のテーマが風刺的なかたちで示されているという。 というのも、神話の英雄オデュッセウスとその仲間は、酩酊して目が見えなくなった巨人キュクロプスの洞窟から牡羊の腹の下にしがみついて逃走したからである。

前5世紀の酒杯です。グレゴリウス・エトルリア美術館所蔵。もともと角なので、置けません。ちなみに、オデュッセウスの逃亡というのは、以前お話ししたこれのことかと。

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「論衡」物勢篇

ひつじ話

あるひとはいう―寅は木であって、それにあたる獣は虎である。戌は土であって、それにあたる獣は犬である。丑も未もまた土であって、丑にあたる獣は牛、未にあたる獣は羊である。木は土に勝つがゆえに、犬・牛・羊は虎に征服されるのだ。 (略)
その答はこうだ。もしも論者のいうとおりだとすれば、血の通っている動物は、たがいに勝てないという証拠もたつ。 (略)
亥は豕、未は羊、丑は牛である。土が水に勝つならば、牛や羊はなんで豕を殺さないのか

後漢の頃、王充によって著された「論衡」は、万物にツッコミをいれまくった元祖懐疑論な書物ですが、「物」の本質について語った「物勢篇」では、五行説に対して愉快な批判がなされています。なんで豕を殺さないのか・・・。
なお、注釈にも興味深い一文がありましたので、下に。

郭沫若の『甲骨文字研究』(「釈支干」)によれば、十二支を獣にあてはめたのは『論衡』の記事が最初だが、それはインド・バビロニア・エジプトで行われており、前漢時代にバビロニアのものが西域諸国を経て伝わったらしいという。

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羊神判

ひつじ話

その神判のしかたは、『墨子』の「明鬼」篇(下)に、その例がしるされている。
むかし、斉の荘君の臣に、王里国、中里キョウとよばれるものがいたが、この二人が訴訟で争うて、三年しても決着がつかなかった。斉君は、確証のない嫌疑だけでは裁定しかねるので、羊神判を行うことにした。そこで各自に羊一頭ずつを提供させて、斉の神社で盟いをさせ、羊の頸血を社壇にそそがせた。王里国が神への陳述をよみあげてよみ終るまで、なんらの異常もなかった。ところが中里キョウがその辞をよみ進めて、まだ終らぬうちに、羊がおきあがって中里キョウにふれ、社殿におどりあがって、盟所にたおれた。
これで、中里キョウの敗訴が決定した。 (略)
この解タイといわれる神羊は、古い伝承によると、むかし刑法を定めた皐陶が、獄訟を裁くときに用いたもので、その性は不直なるものを識別する能力があり、神判では不直なるものに触れてそれを知らせるという。『墨子』のしるすところとも一致しており、皐陶を裁判神とする伝承もあったのであろう。皐陶は羌族の祖神で、羌族は牧羊族であった。羊神判は、古くこの牧羊族が伝えていたものかも知れない。

白川静による古代中国文化論に、羊による裁判が紹介されています。

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「試験に出るパズル」のミニパズル

ひつじ話

講談社ノベルズ「試験に出るパズル」折り返し部分

高田崇史の「試験に出るパズル」、講談社ノベルズ版の表紙折り返し部分に、可愛いミニパズルがついてます。
このとっかかりの可愛さにだまされて、ほのぼの日常系ミステリだと信じて読み始めたら、小説の皮をかぶったパズルでした。ひー。あと、自分が間違ってくやしいので、答えはナイショです。同書をご覧の機会にどうかお確かめください。うう。
この情報は、カーター卿さんからいただきました。ありがとうございます。

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対羊文透彫飾金具

ひつじ話

対羊文透彫飾金具
中国西北辺の文化に属する遺品であるが、文飾の形態は、戦国・漢の動物意匠とは異なる。4世紀以後の作であろう。所々にある円形の突起は、もとは、玉石を嵌めこむための造形であったが、この時期にはすでに象嵌することはすたれ、突起そのものが装飾として残っている。獣面をはさんで有角の羊が向いあうこのような対称的な図柄は、やはり西方起源のものである。大巾の皮帯に着けた飾金具であろう。

大阪市立美術館所蔵の、六朝の工芸品です。
羊が向かいあう図柄については、前にこちらで少し触れています。

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島田元旦「黄初平図」

ひつじ話

島田元旦「黄初平図」

江戸期の画家島田元旦による「黄初平図」です。西洋絵画の技法が使われているのが見所。黄初平図は円山応挙のものを以前ご紹介したことがありますが、この応挙のもとで学んでもいます。

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ギリシャ神話における金毛の羊

ひつじ話

こうして音にきこえた英雄イアソンのもとに多くの艱難辛苦にたえたのち、ついに一行は、濁水みなぎるパシスの急流にたどりついた。

イアソン → テッサリアの町イオルクスの王アエソンの息子。幼時を賢者キロンにそだてられた。アエソンは、その異父の兄弟ペリアスに王位をうばわれていたが、イアソンは成人すると、ペリアスに父の王国の返却を要求した。イアソンを怖れたペリアスは、黄金の羊皮を取ってくることをかれに命じた。

かれらは、さっそく王のもとにおもむき、プリクススの牡羊の皮を所望したが、王がミニュアスの子孫たちに課した条件は、おどろくばかり苛酷な試煉であった。

プリクスス → ボエオティアの王アタマスとその妻ネペレ(雲の意)との子で、ヘレの兄弟。アタマスの二度目の妻イノの継子いじめのために、兄妹は、メルクリウス神からあたえられた金毛の牡羊にのり、空をとんでのがれた。途中でヘレは目まいがして、海に落ちた。ヘレスポントゥス(ヘレの海、の意)がそれであるという。プリクススは、コルキスに着き、アエエテス王の娘のひとりカルキオペを妻としてあたえられ、金毛の羊をユピテルに犠牲としてささげ、その皮をアエエテスに贈った。王は、マルスの森の樫の木にこれをつるして、竜に番をさせた。

金毛の牡羊 → トラキア(あるいはマケドニア)の王ビサルテスの娘テオパネは、海神に愛され、多くの求婚者たちからのがれて、クルミッサ島で牡羊と牝羊とに姿を変えて交わり、金毛の牡羊をうむ。この牡羊は、のちプリクススとヘレを助け、アルゴナウタエの遠征によって知られる金羊毛皮伝説をつくる。

アルゴナウタエ → 英雄イアソンは、いわばすべての英雄たちに課せられる試煉として、コルキスの王アエエテスの所持している金羊毛皮を取りに出かけることになり、ギリシアの各地から英雄・勇士たちをあつめて、遠征隊を組織し、アルグスなる男に命じて、五十本の櫂をもつ大型の船をつくらせる。この船は、世界で最初の船とされ、その建造者にちなんでアルゴ号と名づけられ、この遠征隊員をアルゴナウタエ(アルゴ号乗組員たち、単数形アルゴナウテス)とよぶ。

これを聞いていたアエエテスの娘メデアの胸に、はげしい恋の炎がもえあがった。

メデア → アエエテス王とイデュイアとの娘。魔法に通じていた。エウリピデスに悲劇「メデイア」がある。

(略)
しかし、仕事はまだのこっていた。それは、けっして眠ることのない竜を霊草の力で眠りこませることであった。この竜は、とがった冠毛と三枚の舌とするどく曲った歯とによって人びとに知られ、黄金の樹のおそろしい番人なのであった。イアソンは、この怪竜にレテの河の水とおなじような効き目のある草の汁をふりかけてから、やすらかな眠りをまねきよせ、逆巻く海をも岩をかむ激流をもしずめるような呪文を三度となえると、まだかつて眠りというものを知らなかったこの怪竜の眼に眠りがしのびこんだ。こうして、勇猛なアエソンの子は、ついに黄金の羊毛皮を手に入れることができた。

オウィディウスの「転身物語」、巻七の「イアソンとメデア」とその注釈を中心に、ギリシャ神話における金毛の羊について抜き書きしてみました。昨日のブルックスブラザーズの商標に関する説明にあったIn ancient Greek mythology云々というのは、これらのことですね。
あと、金毛羊の出生については、前にこちらでもご紹介してます。

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