「ホチムの魔王」

ひつじ話

被害者はまるで神かくしにでもあったように、突然姿を消し、二、三日後には野ざらしの死体となって発見されるのが普通だったが、時には警備隊の宿舎の中で犯行が演じられるというほどの不祥事さえも起こったのだ。
ただ、どの場合でも、ふしぎな一致点というのは、死体の首がどこかに持ち去られて発見されず、そのかわりに、羊の首が死体とともに発見されるという奇怪な事実だったのである。
「種々の報告から総合して、この兇行は一人の狂人のしわざとは考えられない。いや、それどころか、厳正な組織を持った秘密結社の犯行ではないかとわれわれはにらんでいる。この仮想団体を「羊の首」と称するが」
赤松大佐は重々しい口調でつづけた。

高木彬光の怪奇小説集「吸血の祭典」からの一編、「ホチムの魔王」です。昭和11年、関東軍の特務機関に配属された若き大尉に命じられた任務とは!? 
こちらの情報は、カーター卿さんからいただきました。ありがとうございますー。

記事を読む   「ホチムの魔王」

ジャン=フェルディナン・シェノー「夕暮れ」

ひつじ話

ジャン=フェルディナン・シェノー「夕暮れ」

セラマノに続いてもうひとり、シャルル=エミール・ジャックの影響を受けた動物及び風景画家、ジャン=フェルディナン・シェノーです。やはりひつじの絵を多く描いています。「羊小屋」と名付けた家に住み、「羊のラファエロ」と呼ばれました。

記事を読む   ジャン=フェルデ ...

黒い羊のことわざとエール

ひつじグッズ, ひつじ話

どの群れにも黒い羊が一頭くらいいる (英) 
羊の群の中には白いものばかりでなく黒い羊も一頭ぐらいはいるように、どこの家や集団でも一人ぐらいは他の者とまるで違う者(特に他人に迷惑をかける困り者や悪い奴)がいるものである。どんな立派な家庭や社会でも悪い者が皆無とはいかず、むしろ少数ながら悪い者もいるのは当然といえよう。「黒い羊」は、古代ギリシャでは冥界の神々や嵐の神に捧げられており、英語では余され者をさす。

バァ、バァ、ブラックシープ」をご紹介したときに少し触れましたが、こんなことわざが英国にあるのですね。
ただ、このことわざの意味する「黒い羊」を自ら名乗る場合というのもありまして、ヨークシャーのエール「ブラックシープ」は、その代表格かと思われます。
ブラックシープエール  グレイルならぬ、ホーリーエール  ホーリーエールの踏まれ羊
こんなのですが。2本目のは、モンティ・パイソン30周年記念ビールらしいです。ラベルのすみっこで、ちゃんと羊が踏まれてるのがポイント?
ちょっと前に、渋谷にある「Belgo」というお店で飲んできました。意外と飲みやすかったです。
上の写真は、空き瓶をもらって帰って、家で撮りました。こんな可愛いもの、とても置いて帰れません。
ちなみに、黒い羊のワインも存在します。

記事を読む   黒い羊のことわざとエール

ピエール=エマニュエル・ダモア「風車のそばの羊飼いと羊」

ひつじ話

ダモア「風車のそばの羊飼いと羊」

バルビゾン派は、その主要な7人を「プレイヤード(すばる星)」と通称しますが、この「風車のそばの羊飼いと羊」を描いたダモアは、そのうちの二人、コローとドービニーに教えを受けました。

記事を読む   ピエール=エマニ ...

山海経の葱聾

ひつじ話

葱聾
獣には葱聾(そうろう)が多く、その状は羊の如くで赤い鬣(たてがみ)。

土螻ホウキョウをご紹介したことのある山海経のひつじのようなものを、もう一頭追加。西山経に記されている葱聾(そうろう)です。人は食わないようです。

記事を読む   山海経の葱聾

ジャン=フランソワ・ミレー「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」

ひつじ話

ミレー「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」  「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」(部分) 

バルビゾンの巨匠ミレーの「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」です。山梨県立美術館所蔵。じつは一頭だけ、目が合う子がいるんですが、お気づきでした?

記事を読む   ジャン=フランソ ...

ようこそ、羊さま。 (好大一対羊)

ひつじ話

ようこそ、羊さま。
雲南省のとある村。寒冷地で作物を栽培するのも困難な劣悪な自然環境の中、ターシャンとその妻は細々と暮らしていた。県の役人が視察にやってきて村の貧しさに驚き、夫妻に外国産の羊二頭を送る。テストケースとしてこの二頭を無事に育てて増やし、果ては村の生活を楽にしようという考えだった。面子の為にも、失敗する訳にはいかない。ターシャン夫妻は、羊が風邪を引かないように家の中に柵を作り、部屋の雰囲気を明るくするために赤の紙を壁に貼り、身体にいい食物を食べさせたり、あれこれと気を遣う。しかし、人間でも暮らすには大変な土地。二頭の羊は痩せ細っていくばかりだった…。
“中国映画の全貌2006”8月19日(土)?9月10日(日)、三百人劇場にて開催

公開がはじまるころにとりあげよう、と思っていてすっかり忘れていました。それにしても、赤い部屋で元気になるんでしょうかヒツジは。

記事を読む   ようこそ、羊さま ...

シャルル=エミール・ジャックのひつじたち

ひつじ話

「羊飼いと羊の群」  「羊飼い」  「夕暮れの羊飼いと羊」

バルビゾンのひつじ画家、シャルル=エミール・ジャックのひつじ絵を3点続けて。順に、「羊飼いと羊の群」、「羊飼い」、「夕暮れの羊飼いと羊」です。

記事を読む   シャルル=エミー ...

日光東照宮の五重塔

ひつじ話

「大日光」より、五重塔の未彫刻

日光東照宮の五重塔初層を取り巻いている干支彫刻から、ひつじ部分を。

記事を読む   日光東照宮の五重塔

シャルル=フェルディナン・セラマノ「森外れの羊飼いと羊」

ひつじ話

セラマノ「森外れの羊飼いと羊」

セラマノは、以前ご紹介したバルビゾンのひつじ画家、シャルル=エミール・ジャックの弟子にあたる動物画家です。やっぱり羊をやまほど描いています。

記事を読む   シャルル=フェル ...

羊に乗った仙人、葛由

ひつじ話

葛由
葛由は羌の人であった。周の成王のころ、よく木の羊を刻んで売っていた。
あるとき羊に乗って蜀の地にやってきた。蜀の国内の王侯貴人たちが、これを追いかけていってすい(糸偏に妥)山に登った。すい山は峨媚山の西南にあって、きりもなく高い。跡からついていったものは二度と帰らず、みな仙道を得た。

列仙伝に伝えられる、羊に乗った笛吹男、葛由です。左慈といい、修羊公といい、黄初平といい、仙人って。

記事を読む   羊に乗った仙人、葛由

コンスタン・トロワイヨン「水を渡る牛」

ひつじ話

コンスタン・トロワイヨン「水を渡る牛」 「水を渡る牛(部分)」

バルビゾン派の動物画家コンスタン・トロワイヨンの「水を渡る牛」です。栃木県立美術館所蔵。「牛の画家」として知られるトロワイヨンですが、たいがい牛と一緒に羊もいるようです。

記事を読む   コンスタン・トロ ...

中山君、都の士大夫を饗す。

ひつじ話

本文
中山君、都の士大夫を饗す。 司馬司期在り。 羊羹、遍からず。 司馬司期、怒って楚に走り、楚王に説いて中山を伐たしむ。 中山君亡ぐ。 二人、戈をひっさげて其の後に随う者有り。 中山君、顧みて二人に謂う、「子はなんする者ぞや。」と。 二人対えて曰わく、「臣、父有り、嘗て餓えてまさに死せんとす。君、壺さん(にすいに食)を下す。臣が父、まさに死せんとして曰わく、「中山に事有らば、汝必ず之に死せよ。」と。故に来って、君に死するなり。」と。 中山君、き(口偏に胃)然として仰ぎ歎じて曰わく、「与うるは衆少を期せず、其れ厄に当たるに於てす。怨は深浅を期せず、其れ心を傷つくるに於いてす。吾、一杯の羊羹を以て国を滅ぼし、一壺のさん(にすいに食)を以て士二人を得たり。」と。
解釈
中山君が都の士大夫をもてなしたときのこと、司馬司期もその一人であった。 が、羊の吸い物が行きわたらず、彼のところへ来なかったので、司馬司期は怒って楚に逃げ出し、楚王を説得して中山国を伐たせた。 中山君は国から逃亡した。 そのとき、ほこを引っさげて彼の後を追う者がいるので、中山君は振り返ってその二人に尋ねた、「あなたたちは、何者ですか。」と。 二人が答えて言うには、「私たちには父がいましたが、かつて餓死しそうなところを、我が君が一壺の食べ物をお与え下さり、そのため生きながらえました。 私たちの父が死ぬ間際に、「中山に戦があった時は、おまえたちは必ず命を差し出すのだ。」と申しました。そのため、こうしてついてきて我が君のために死のうと思っているのです。」と。 中山君は「ああ」とため息をもらし、天を仰いで嘆いて言った、「人に物を施すというのは、多い少ないは問題ではない。その人が困っているそのときにするかどうかだ。人から恨みを買うのは、深い浅いは問題にならない。その人の心を傷つけたかどうかによるものだ。私はたった一杯の羊の吸い物のせいで国を滅ぼし、わずか一壺の食べ物のおかげで二人の士を得た。」と。

前漢のころにまとめられた中国の戦国時代史「戦国策」に記された、中山国についての一幕です。
羊羹というのは、羊の羮(あつもの)、つまりスープのことですね。羊肉入りの。ごちそうだったんでしょうか。

記事を読む   中山君、都の士大夫を饗す。

黄初平の根付け

ひつじ話

黄初平根付け
黄初平仙人は十五歳の時に山羊の群れを連れて山に入り、瞑想に耽っているところを四十年後に兄によって見つけられた。その時兄が山羊がいなくなっていることに驚くと、仙人は杖で傍らにころがっていた石に触れ、石を山羊に変えたという。 19世紀 無銘 4.0? ウエーバー旧蔵32図7番掲載

昔の羊が小さい話でご紹介した、応挙や雪舟によって描かれた黄初平は、根付けの題材としても好まれているようです。・・・けど、これは・・・羊でいいんでしょうか。 こちらの「根付の題材」では、日本では、羊と山羊は代替可ということらしいのですが。

記事を読む   黄初平の根付け

牧羊用石造サイロ(滝川)

ひつじ話

重厚で存在感のある石造サイロ
 滝川市の丸加高原展望台そばに、石造りのサイロがひっそりと建っている。
 サイロは1923年(大正12年)に滝川種羊場に建設された「第一サイロ」。サイレージ容量は100トン、高さ11・5メートル、直径5・45メートルの円筒形。綿羊1000頭分の冬季用飼料庫として建てられ、札幌軟石が使用された。デントコーンなど飼料作物を貯蔵して発酵させ、サイレージに調製する。
 道内で現存する最古の石造サイロは、北海道大(札幌)にある。12年に建設された旧札幌農学校のサイロで、「大正時代の石造サイロは道内で数例しかなく、滝川のような巨大サイロは珍しい。本道酪農史でも貴重な遺構」(池上重康・北大大学院助手)という。
 滝川と羊のかかわりは、06年の農商務省月寒種牛牧場の創設に始まる。第1次世界大戦に伴い、国が軍需羊毛の確保を図るため、綿羊100万頭を増殖しようと18年、全国5か所に種羊牧場を設置。滝川は道内で月寒(現札幌市豊平区)とともに選ばれた。世界恐慌で計画が縮小され、実質的に滝川だけが存続(月寒は滝川の分場)した。
 その後、道への移管を経て、戦後、道立畜産試験場(畜試)になった。羊毛・羊肉の輸入で役割も縮小、2000年に十勝・新得町の道立畜試に統合されるまで、国内最大の研究施設だった。数千頭の羊がいて、放牧風景など、滝川を代表する観光地でもあった。
 畜試は農家への綿羊の払い下げや品種改良などの研究を行った。元畜試場長米田裕紀さん(64)は「滝川は頭数や羊舎の規模など、研究拠点としては全国でも有数だった。品種改良のほか季節外繁殖、飼養などの研究を行ったが、輸入に押され、羊の需要が減少した」とさみしそうに語る。
 畜試は道民生活にも大きな影響を与えた。手織り機などで衣類を作るホームスパンや味付きジンギスカンの普及を担った。味付きジンギスカンで有名な松尾ジンギスカンの滝川創業にもつながった。
 サイロは72年まで使用された。解体話が持ち上がったが、地域のシンボルであることから、市が譲り受けて丸加高原に移設した。当時、畜試の管財係長だった北照夫さん(77)は「石造りの大型サイロが作れるのは官庁か民間の大農場だけ。保存されてほっとした」と思い入れを語る。
 畜試が統合されて数年を経て、羊舎など羊の面影は市内にほとんど残っていない。「綿羊王国・滝川」を象徴する数少ない建物は、今、丸加高原に放牧される羊を静かに見守っている。
 滝川市内の羊は、丸加高原に放牧されている10頭程度。サイロには展望用階段が設置されており、内部見学の申し込みは丸加高原伝習館へ。有名な松尾ジンギスカンのほか、市内の別の販売店でも味付きジンギスカンを扱っている。

記事を読む   牧羊用石造サイロ(滝川)

PAGE TOP