王堂上に坐(いま)せるとき、牛を牽きて堂下を過ぐる者有り。王之を見て曰く、牛何くにか之(ゆ)く。対(こた)えて曰く、将に以て鐘に釁(ちぬ)らんとす。王曰く、之を舎(お)け。吾その觳觫若(こくそくじょ)として罪無くして死地に就くに忍びざるなり。対えて曰く、然らば則ち鐘に釁ることを廃(や)めんか。曰く、何ぞ廃むべけんや。羊を以て之に易(か)えよと。
※ 釁(きん)、 鐘鼎・軍器・廟社など重要な物ができたとき、犠牲の動物を殺してその血を塗って、災、穢をのぞき不祥を祓い、神聖にする儀式。
※ 觳觫若は觳觫然と同じ。おどおどと恐れる形容。
王様がいつぞや御殿におられたとき、牛をひいて御殿の下を通るものがあった。王様はそれをご覧になって『その牛はどこへつれていくのじゃ』とおたずねになると、その男から『こんど新しく鐘をつくったので、この牛を殺してその血を鐘に塗り、お祭をするのです』ときかれて、『止めてくれ。道理で牛は物こそ言わぬが、罪もないのに刑場へ曳かれてゆくかのようにオドオドと恐れている。可愛想だ、助けてやれ』とおっしゃったでしょう。『それでは、鐘に血を塗るお祭はやめにしましょうか』とその男が申しあげると、『なんで〔大切な〕祭がやめられようぞ。牛の代りに羊にしたらよかろう』とおっしゃられたとか。
「孟子」の「梁恵王章句上」にある、斉の宣王と孟子の会話から、小さなもので大きなものの代用とすることを意味する故事成語、「以羊易牛」の元になったエピソードを。羊の立場が無さすぎですが、これは、惻隠の心には段階があって、目の前の牛はその第一歩だ、というお話なので、しかたないようです。でも悲しい・・・。