ジャン=フランソワ・ミレーの「二人の羊飼いの少女」です。
ミレーの少女羊飼いを描いたものは、「雁」、「小さな羊飼い」、「羊飼いの少女」などをご紹介しています。
ミレー 「二人の羊飼いの少女」
旧約聖書 雅歌
あなたの歯は洗い場から上ってきた
雌羊の群れのようだ。
みな二子を産んで、一匹も子のないものはない。旧約聖書 雅歌 第四章及び第六章
旧約聖書の雅歌より。
愛する人を賛美しつくした詩のなかで、その歯が羊にたとえられています。真っ白なのですね。
「ちいさなひつじフリスカ」
また いいことを おもいつきました。
さくらの きのしたにいって
はなびらを どっさり のせてみたのです。
ロブ・ルイスの絵本、「ちいさなひつじフリスカ」です。
羊のフリスカは、自分が小柄なのを気にしています。冬は雪をのせたり、春は花びらをのせたりして、体を大きくみせようとしますが、うまくいきません。そんなある日、羊たちは狼に狙われてしまうのですが……?
トマス・ゲインズバラ 「羊飼いと羊のいる風景」
18世紀イギリスの肖像画家にして風景画家、トマス・ゲインズバラの「羊飼いと羊のいる風景」です。マンチェスター市立美術館所蔵。
荘子 内篇 逍遙遊篇
窮髪之北有冥海者、天池也、
有魚焉、其廣數千里、未有知其脩者、
其名爲鯤、
有鳥焉、其名爲鵬、
背若泰山、翼若垂天之雲、
搏扶搖羊角而上者九萬里、
絶雲氣負?天、然後圖南、
且適南冥也、
窮髪(きゅうはつ)の北に冥海ある者、天池なり。
魚あり、其の広(はば)は数千里、未だ其の修(なが)さを知る者あらず。
其の名を鯤(こん)と為す。
鳥あり、其の名を鵬(ほう)と為す。
背は泰山の若く、翼は垂天の雲の若し。
扶搖(ふよう)に搏(はう)ち羊角(ようかく)して上ること九万里、
雲気を絶(超)え青天を負いて然る後に南を図り、
且(まさ)に南冥に適(ゆ)かんとするなり。
北極不毛の地のさらに北に大きな海があるのは、天の池である。
そこに魚がいて、その体のはばは数千里、その長さの方はだれにも見当がつかない。
その名は鯤(こん)という。
そこにまた鳥がいて、その名は鳳(ほう)という。
背中はまるで泰山のようであり、翼はまるで大空いっぱいに広がった雲のようである。
〔さてこの大鳳は、〕はげしいつむじ風に羽ばたきをすると、くるくる螺旋を描いて九万里もの上空に舞い上がり、
雲気の層を越え出て青い大空を背負うと、そこで始めて南方を目ざして
南の海へと天翔ろうとするのである。
「荘子」冒頭の逍遙遊篇より。
図南鵬翼の寓話の中で、螺旋を表現するために「羊角」という言葉が使われています。
「荒野の羊飼い」
ケパは羊の一隊を見わたした。先頭の羊はちゃんと先頭に立っていた。黒羊は決められた場所にいた。
列の中ほどを行く羊は中ほどに、一番あとから行く羊は一番あとについていた。
羊たちを見ても、生きた羊毛のよせ集めではなく、一頭一頭、がつくようになるだろうと、ティオ・マルコはいっていたが、そのとおりだった。
羊飼いはどうやって羊たちの区別がつくようになるのだろうか、とケパは思った。
ぼくが区別がつくようになったのはいつだったろう? 何に教わったのだろう?
ケパは考えてみたが、答えられなかった。
それは羊飼いが通る羊の道のなぞだった。
アン・ノーラン・クラークの児童文学「荒野の羊飼い」です。
スペインのバスク人である主人公の少年は、牧羊業者として成功した名づけ親を頼って単身アメリカへ渡ります。
アイダホの大草原が少年に与えた多くの試練は、彼を大きく成長させ、そして。