トーマス・マン 「ヨセフとその兄弟」

ひつじ話

イサクは衰弱し、死んだ。
高齢のために目がみえなくなっていたが、代々伝えられてきたイサクという名前をもつその老人、アブラハムの息子は、臨終のおごそかな時に、ヤコブや居合わせていた一同の面前で、「自分」のことを高い恐ろしい声で、予言者のように、頭が変になったように、受け容れられなかった犠牲の仔羊のことを話すように語り、牡羊の血を自身の血、真正な息子の血と考えるべきであって、万人の罪をあがなうために流された血であると語った。
それどころではない、イサクは息を引き取る直前に、不思議な巧妙さで牡羊のように鳴こうとした。と同時に血の気のひいた顔が驚くほど牡羊の顔に似てきた。―むしろいままでも存在していた類似性にひとはいま急に気づいたというほうがいいかもしれない―、一同は愕然とし、あわててひれ伏したが、間に合わなくて、イサクの顔が羊の顔になるのがみえてしまった。

トーマス・マンによる、聖書に材を取った長大な小説「ヨセフとその兄弟」より、第一部のヤコブ物語の一節を。
旧約聖書創世記における、「イサクは年老い、日満ちて息絶え、死んで、その民に加えられた。その子エサウとヤコブとは、これを葬った。」という記述に対応する場面ですが、だと思うんですが、ほんとに同じ場面なんでしょうか、これは。
イサクについては、「イサクの犠牲」テーマの絵画などをいろいろご紹介しておりますので、こちらでまとめてぜひ。創世記の対応部分は、こちらで。
小説のタイトルであるヨセフと兄弟については、ラファエッロの「兄たちに夢の話をするヨセフ」をご紹介しています。

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マーレル・デイ 「神の子羊」

ひつじ話

羊たちはどこなりと好き放題に歩きまわる。
牧草地だろうと、回廊や礼拝堂だろうと、四六時中メエメエと、あたりかまわず羊の賛美歌を響かせている。
儀式としての剪毛日に限らず、修道女たちの羊毛集めは一年中だ。
灌木の間に、聖母マリア像の表面に、あるいは羊たちがぶつかりながら通り抜ける石造物の割れ目の中に、羊毛が引っかかっていた。
羊たちは、修道院中をうろつきまわってはいるが、群れからはぐれることはなかった。
夏は香りのよい草が豊かに茂り、冬の間も羊たちの食欲を満たすのに充分なほどだ。
シスターたちを怖がることもない。
あまりにも長い間一緒に暮らしているおかげで、羊たちは―そんな知能があるとしての話だが―シスターたちのことを、羊飼いではなく、自分たちの仲間だと思っていた。

マーレル・デイの小説です。ジャンルとしては、サスペンスに入るのかどうか、といったあたり。
人生の大半を修道院の中だけで過ごしてきた三人の修道女のもとに、一帯をリゾート地として開発するために教会司教の秘書官がやってきます。事態は非常にスムーズに「ミザリー」的方向にすすむのですが、にもかかわらず、感情移入したくなるのは三人の老女のほうなのがポイント。羊飼ってますし。

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「陽気なギャングの日常と襲撃」

ひつじ話

「あいつも人質なのか。というよりも、久遠のために身代金を払うとしたら、誰なんだ? あいつの親の話を聞いたことないぞ」
「あいつが人質になったら、ニュージーランドの羊たちが必死の思いで、日本にやってくるかもな。救い出すために」
「つまらない冗談だ」響野は鼻で笑った後で、「ただ、ありそうな気もする」と続けた。

伊坂幸太郎「陽気なギャングが地球を回す」の続編です。
トラブルの渦中にある「動物好きで、人間嫌いの」(本文より)久遠を助けに来た、仲間たちの会話。良いなぁ、久遠……。

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