いまここで考えるべきは、このような「食に関する超越者の発話」についての報告を、長い民族史的物語の特定の箇所に挿入した旧約記者が、どういう意図をもってそれを行ったかである。
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そのひとつはファラオ(パロ)のもとにいるヨセフを、弟とともにイスラエルの人々が訪ねたときの記述である。
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「もしパロがあなたがたを召して、〈あなたがたの職業はなにか〉と言われたら、〈しもべらは幼いときから、ずっと家畜の牧者です。われわれもわれわれの先祖もそうです〉と言いなさい。そうすればあなたがたはゴセンの地に住むことができましょう。羊飼いはすべて、エジプトびとの忌むものだからです』」(創世記四六:三〇―三四)
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こうして、食、労働、そして信仰のいずれのレヴェルにおいても、忌むものと見なされているという意識状況の記述から、かれらがいかにアイデンティティの危機に立たされていたかが示され、出エジプトの必然性が納得されることになる。そして、第三段階のレヴィ記の動物の可食・不可食規定が神の言葉として発せられるのは、この出エジプトの事業が、神の導きのもとで達成されたあと、しかも供儀に関する詳細な規定が示されたあとのことであった。
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レヴィ記の可食・不可食規定の語り口は、民族的分化の過程で差別されるようになったイスラエルの民の特殊な生のあり方を、完全性をもったものとして描きうるように、他集団の食慣習に負、そして自集団の食慣習に正の印を付しうるような言明なのである。
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まさに蔑視されていた牧羊者の職業的生業の生産する食対象、つまり「爪が割れており、かつ反芻する」ものを中心化し、それに依存している食生活を清いものとして、価値を逆転する。そして、そうすることで、まさに対抗的なアイデンティティを確立することにあったと言えないだろうか。
旧約聖書レビ記における食規定の考察から、羊や山羊の特殊性に関わる部分を抜き出してみました。
レビ記の該当部分は下に。
地にあるすべての獣のうち、あなたがたが食べることができる動物は次のとおりである。
獣のうち、すべてひづめの分かれたもの、すなわち、ひづめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる。
レビ記第11章 2―3