そこで町の人びとは毎日二匹の羊を竜に与えて、怒りを鎮めることにしました。
こうしないと竜は城壁のしたにやってきて、毒気を吹きかけ大気を汚染するので、たくさんの人間が死んでしまうからでした。
しかし、羊の数が減ってあまり見当たらなくなると、今後は日に一匹の羊とひとりの人間を悪竜に捧げることに相談がまとまりました。
ヤコブス・デ・ウォラギネの「黄金伝説」より、竜退治の聖人として知られる聖ゲオルギウスの章冒頭を。
これまでにご紹介した「黄金伝説」の聖人は、こちらで。
ひつじ(ヒツジ、羊)のニュース、画像(写真)、グッズ、サイト、牧場などを紹介するひつじサイト。あなたの好きな羊もたぶん見つかります。
そこで町の人びとは毎日二匹の羊を竜に与えて、怒りを鎮めることにしました。
こうしないと竜は城壁のしたにやってきて、毒気を吹きかけ大気を汚染するので、たくさんの人間が死んでしまうからでした。
しかし、羊の数が減ってあまり見当たらなくなると、今後は日に一匹の羊とひとりの人間を悪竜に捧げることに相談がまとまりました。
ヤコブス・デ・ウォラギネの「黄金伝説」より、竜退治の聖人として知られる聖ゲオルギウスの章冒頭を。
これまでにご紹介した「黄金伝説」の聖人は、こちらで。
ぷっか様から、京都の書店恵文社にて、愛らしいぬいぐるみの写真集を見かけたとのお知らせをいただきました。ありがとうございます。
京都は遠いし、でもこれは欲しい、というわけで、公式サイトの通信販売で買ってしまいました。
届きましたー。
スモーキー・ピンクのもふもふボンボンがついてるのは、直販限定の特装版だそうです。
著者は、以前ルーマニアとフィンランドの切手を買ったときに、合わせてお話したことのある、 「切手帖とピンセット」と同じかたですね。
おんがくかたち
おとなりさんの お庭では
きょうもようきな 音楽会
ガチョウたちが ポロロンロン
小さなたてごと つまびけば
アヒルたちは プップクプー
金色ラッパを ふきならす
オヒツジたちは バケツぞこ
ゴキブリたちは こだいこを
そろってドンドコ トコトントン!
コルネイ・イヴァーノヴィチ・チュコフスキー編、ユーリー・バスネツォフ絵、田中潔訳の絵本から。
その表象は、天文学・占星術関連の写本挿絵のみならず、陶器や金属器など様々な分野における美術品の意匠として使われている。
ただし、古代オリエント・インドに同じ起源をもちながら、西洋世界のそれとイスラーム世界のものは、若干異なっている。
14世紀マムルーク朝の鏡や16世紀サファヴィー朝の皿をご紹介しているイスラム圏の十二宮図をもうひとつ。15世紀ティムール朝の「占星用黄道十二宮図」です。
多胡碑には「上野国片岡郡、緑野郡、甘良郡合わせて三郡のうち、三百戸を郡となし、羊に給いて多胡郡と成す。和銅四年三月九日甲寅に宣る」とある。
この「羊」は渡来人と目される。
羊年の羊の日、羊の刻に生まれ羊太夫と呼ばれた偉丈夫には小脛(あるいは八束脛、八束小脛)という家来がいた。
二人は大和の朝廷へ日参する。
小脛は自分が眠っているところを見ないでくれといっていたが、あるとき見ると脇の下に翼を着けていた。
羊太夫がそれを抜き取ると以来、鳥のように走ることができなくなり、朝廷への伺候も止む。
それを謀反であるとして朝廷の追補を受けた二人は蝶となって天に舞い上がり、やがて鳶(あるいは白鳥)に変わった。
これだけなら鳥人伝説であろう。
この羊太夫が大和へ日参する途中立ち寄った尾張の山田(現名古屋辻町)に羊神社がある。火辻(羊)が辻(辻町)に変わった。安中市にも羊神社がある。
群馬県高崎市の古碑「多胡碑」の碑文にまつわる伝承について。
名古屋市の羊神社は、以前お参りしたことがあります。安中市の羊神社については、こちらの記事が公式のものかと。
メイは、ベッドのうしろを のぞいてみました。
すると、ゆかで 108ぴきめのひつじが
のびていました。
よくみると、おでこに たんこぶができています。
「ぼく、とびこせないよ」
ひつじはいいました。
いまいあやのの絵本です。
眠れないメイは、羊を数えることを思いつきます。108匹目まで数えたところで、ベッドのうしろで、ゴツンと音がして……?
ピーテル・パウル・ルーベンスの聖家族を。ウィーン美術史美術館蔵。
これまでにご紹介したルーベンスは、こちらで。
中世の医師たちは、疫病が沼沢地から立ち上る瘴気と同じように空気伝染すると信じ込んでいたので、生活のスタイルを変えるよう助言した。
窓を閉め切って覆いを掛けなければならなかったので、裕福な人たちは分厚いタペストリーを買い求めた。
黒死病は、フランドルやフランス北部のタペストリー製造業者にとって需要の拡大という著しい商業的な効果をもたらした。
(略)
西洋においてタペストリーの製作に従事していたのは、すでに中世の美術品の主要な製作者としてその地位を確立していた修道士だった。
だが、裕福な人々が求めるようになった、悪疫の侵入を食い止めるといった特定の用途をもったきわめて大きなタペストリーを製作しようとすれば、数多くの腕の立つ職人を組織的に働かせなければならなかった。
裕福な人々が求めていたのは、中世の人々に広く知られていたロマンスからお好みの情景を選びだし、それを精巧なつづれ織りによって図案化したものであって、分厚いだけで変わり映えのしないタペストリーでは、こうした人たちの嗜好を満たすことができなかったからである。
タペストリー(タピストリー、タピスリー)は、15世紀トゥールネの「羊の毛刈」や16世紀フィレンツェの「ヴィーナス=フローラとしての春」、18世紀フランスの「手相占い」などをご紹介していますが、意外な一面をその用途に持っていたようです。
黒死病と文化の関係では、他に、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂やサン・ジョヴァンニ洗礼堂に絡んでお話をしたことがあります。
狼をいちばん恐れていた羊飼いと農民は、先祖伝来の敵に対して、防御の姿勢ともいうべきかずかずの迷信的な手段に訴えた。
たとえば、ラングドッグ地方では、はらんだ牝羊と子羊の数を数えることは、狼に家畜をさし示すことになり、実際に狼が食いにやってくると考えていた。
同じ理由から、ソローニュ地方の羊飼いは金曜日には牝羊を数えることを避けた。
また、狼を近づけないために、驚くべき処方箋や目をうたがうような手段に訴えた。
1566年に、『田舎の家』には「先頭の牝羊に野生のニンニクを縛りつけておくと、狼は牝羊の群れに何の害も与えない」と書いてある。
18世紀には、ディドロとダランベールによる『百科全書』は真偽のほどは保証しないという条件つきで、「地方経済にとって、大きな利益となるだろう」という新しい処置を紹介している。
狼の糞を羊に塗るというのである。その臭いを狼はひじょうに嫌うらしい、というわけである。
ヨーロッパの狼の文化史について語る「狼と西洋文明」から、羊飼いの狼除けのまじないのいくつかを。
紀元前五世紀のギリシアでは、アストラガルスを使った遊戯法が数種類もあり、一個だけでなく四個を同時に使う遊戯法もあった。
四つの面は不揃いのため各面の出る確率が異なるため、得点も一様でなく「(各面に名付けられた)目の合計がはやく35点に達するのを競う遊び」(G・ロールフス『大ギリシア以前の古代の骨片遊び』)も考案されていた。
ギリシアとローマ時代にはアストラガルスで遊ぶ絵画や彫刻が多数つくられた。
「さいころ」としての需要が高まり広く用いられるようになると、上流階級の人達は高級品や奢侈品としてのアストラガルスを作るようになった。
大英博物館にはギリシア・ローマ時代のコレクションとして、オニックス、山水晶、青銅、瑪瑙、ガラス、鉛で作られたアストラガルスを一カ所に集めた展示がある。
ナックルボーンの勝負を巡って争う二人の少年の像やアストラガロスで遊ぶ人たちをご紹介している、羊の距骨を使ったサイコロやお手玉「アストラガルス(アストラガロス)」について、ボードゲームの歴史の概説書から。
ニュージーランドで最も有名なヒツジ、メリノ種のシュレック(Shrek)が、同国南島の農場で死んだ。所有者が7日、発表した。
(略)
「あいつは信じられない個性を持っていた。子どもたちのことが大好きだったし、老人ホームではお年寄りにやさしい奴だった」と、ペリアムさんは振り返った。
慈善団体「キュア・キッズ(Cure Kids)」のジョシー・スピレーン(Josie Spillane)さんは、シュレックが集めた寄付金はあまりに多く、総額の推計を出すのも不可能なほどだと語った。
報道によると、シュレックの追悼式典は今週、テカポ(Tekapo)の「良き羊飼い教会(Church of the Good Shepherd)」で執り行われる。
ak様から、何度かお話したことのある、ニュージーランドの脱走羊シュレックの訃報をお知らせいただきました。ありがとうございます。
享年16歳。大往生の部類かと。ずっと愛され続けていたのでしょうね。
18世紀末から19世紀初頭のドイツの風景画家、ヨーゼフ・アントン・コッホの「虹のある風景」を。
同時代では、C.D.フリードリヒやランブーの「楽園追放後のアダムとエバ」をご紹介しています。
衣替えの1日、天王寺動物園(大阪市天王寺区)で恒例のヒツジの毛刈りがあった。
小雨がぱらつき、気温も午前11時で18.6度とやや肌寒かったが、4匹が「軽装」に姿を変えた。
K&T様から、天王寺動物園で行われた雨中の毛刈りのニュースをタレコミいただきました。ありがとうございます。
そうか、これはクールビズなのか……。
サトゥルヌスに捧げられた四世紀の記念碑。
羊の絵柄は、サトゥルヌスが牧畜と関係があることを示している。
古代ローマの農耕神サトゥルヌスの記念碑です。
サトゥルヌスと言われると、どうしてもゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」で描かれるような、ゼウス(ユピテル)の兄姉たちを食らう恐ろしい神話を連想してしまうのですが、これに対して、「ユピテルに脅されて、ギリシアからイタリア半島に逃げてきた」というローマの伝承もあるのだそうです。
ダイアナの祖先は実は羊飼いであった。
1621年、二世アランデル伯爵が初代スペンサー男爵ロバート(1570―1627)を議会でつかまえて、
「私の先祖が王事に奔走していた頃、貴下のご先祖は羊を飼っておられた」と侮辱したことがある。
スペンサー家が特に反論しなかったのは、先祖の職業が明白だったことにもよるのだろうが、実はイギリス貴族の場合、重要なのは富力であって、家柄や血筋ではないのである。
スペンサー家もその点は心得ており、彼らは羊を飼いながら富を蓄えた。
イギリス貴族についての入門書を読んでいたら、故ダイアナ元妃の実家として知られるスペンサー家について、興味深いことが書かれていました。「羊商人」ではなくて、ほんとに「羊飼い」から始まったんでしょうか。なんだか斎藤道三の油売り伝説みたいですが。