爾(なんぢ)の牧 来る
薪(しん)をとり 蒸(じょう)をとる
雌(し)をとり 雄(ゆう)をとる
爾の羊 来る
矜矜(きゃうきゃう) 兢兢(きゃうきゃう)たり
騫(か)けず 崩(くづ)れず
之を麾(まね)くに肱(ひぢ)を以てす
畢(ことごと)く来りて既に升(のぼ)れり
そこに牧夫が来て
薪(まき)をとり 粗朶(そだ)をとり
雌鳥 雄鳥を供える
羊が群れて来るときは
よりそうように並びます
乱れもせず 崩れもせず
肱あげて合図をすると
みんなぞろぞろ升ります
『詩経』より「無羊」
アリストテレス「動物誌」の作られかた
しかし、動物学と動物史の創始者と考えられるだけでなく、20世紀以上の間ゆるぎなかったそれらの主としての地位を認めさせるのは、いうまでもなくアリストテレス(紀元前384―22)である。
(略)
動物学においてはアリストテレスは、たぶん、弟子のアレクサンドロス大王が彼の配下に置いたらしい文書係の人々に助けられて、漁師、猟師、船乗り、羊飼い、農民のところで個人的に聴き取り調査をすることから研究を始めるのだった。
このような直接観察、実験、解剖(イルカやゾウも含む)に満足せず、彼は今日では消失している他の多くの書物を考慮し引用していた。
こうして彼は、400近い動物の解剖、生理、生態、行動の研究の基礎を築くことができ、それらについて精密な分類を行ったのである。
アリストテレスの羊に対するあんまりな評価がなにに由来するものなのか、長年気になっていたのですが、どうもちゃんとした観察の結果らしいことがわかってしまいました。そんな。
メリーチョコレートのメリーちゃんバレンタインチョコレート
バレンタインシーズンなので、久しぶりにメリーチョコレートのお店に行って参りました。
商品の種類も増えてましたが、メリーちゃんの仲間たちも増えてました。親友とかボーイフレンドとか。
迷ったのですけれど、中身を空けたあとに使い道がありそうな「羊ポーチ」を購入。
メリーちゃんの羊ポーチ
にこにこ笑顔のメリーちゃんに星型のミルクプレーンチョコレートを詰め合わせました。
いやこれが、手触りが良いのですよ。ふかふか。収納力はほどほどかな? 中身がなくなったら、なにを入れて使いましょう。
ボス 「東方三博士の礼拝」(続き)
朱の外衣の老王(カスパール)は、あたかも祭壇の前にいるかのように、聖母子に向かって恭しく跪拝している。
(略)
手前においた、真珠をあしらった贈り物は奇妙なもので、その黄金製の容器には「イサクの犠牲」の彫刻がある。
それはやはりタイポロジーを示す形象であって、薪の束を肩にかつぐイサクの姿は、十字架を担ってゴルゴタへ向かうイエスの予型にほかならない。
注意してみると、ガマがこの贈り物の下で圧しつぶされている。
本祭壇画には別のところにも不気味なガマがいるし、ボッスはほかの絵画でもしばしばそれを描き添える。
ガマは特別の意味をもつはずで、たぶん異教ないし性的な罪を象徴する記号である。
とすれば、「イサクの犠牲」を示す器の下でガマが圧しつぶされているのは、イエスが己が身を犠牲にすることで、異教の世界、邪悪な世界を打破することを意味する。
この贈り物の意味合いが、おそらくは本祭壇画を貫く主題といってよかろう。
ずいぶん以前にご紹介した、ヒエロニムス・ボスの祭壇画「東方三博士の礼拝」に描かれた奇妙な物件について、解説を見つけましたので、あらためて。
シュメル神話 「ドゥムジ神とエンキムドゥ神」
「農夫が私よりも、農夫が私よりも、
農夫が、彼が私よりも何を持っているというのか?
もし彼が私に黒い麦粉をくれるなら、
私は彼に、農夫に、私の黒い牝羊をあげ、
もし彼が私に白い麦粉をくれるなら、
私は彼に、農夫に、私の白い牝羊をあげ、
もし彼が私に最上等のビールを注ぐなら、
私は彼に、農夫に、私の黄色いミルクを注ぎ、
もし彼が私に良質のビールを注ぐなら、
私は彼に、農夫に、私のキシム・ミルクを注ぎ、
(略)」
しかし幸いなことに、農夫は心の底から平和と友情を願う柔和な人物であった。
彼は牧人と争うことを拒み、彼の羊たちのために放牧地と水を提供しさえする。
「私は牧人である君と、牧人である君と、
私は君とどうして争ったりしようか?
君の羊にこの川の堤の草をはませなさい。
君の羊を私の耕地に放牧しなさい。
彼らに私の穀物を茎ごとはませなさい。
(略)」
円筒印章やカウナケス、文字などについてご紹介しているシュメル文明に関して、女神イナンナの夫選びを描いた神話を。
牧畜神ドゥムジとの結婚を拒絶し、自分は農耕神エンキムドゥと結婚したいと答えた女神に対して、憤慨したドゥムジが自らの豊かさを主張する場面です。結局女神はドゥムジと結ばれるのですが、それにしても農耕神が柔和すぎます。
羊が運転する退屈なコンパクトカー
ヒュンダイが全米の一大イベント、「スーパーボウル」用に制作したテレビCM。日本車を意識したとも受け取れる内容が、話題となっている。
CMは同社の新型コンパクトセダン、『エラントラ』をアピールする内容。羊が運転する古い小型セダンが登場し、「多くの自動車メーカーは、退屈な(小型)車を作り続けるだろう。それは、人々がそれを買い続けるからだ」と、強烈なメッセージが投げかけられる。
「新型エラントラは、退屈な小型車ではありません」と自信たっぷりにPRされたこのCM、動画共有サイト経由で見ることができる。
韓国のヒュンダイ自動車のCMがたいへんなことになっています。なぜ羊。
イタリア民話 「三月と羊飼」
いちばん気むずかしい三月も、いまは終りに近づきつつあって、万事がうまく運ぼうとしていた。
そしてこの月の最後の日になれば、羊飼にはもう恐いものはなかった。
いまや四月は目のまえにあり、時は春だから、羊の群れは助かったのも同然であった。
そこでいままでの哀願の調子をかなぐり棄てて、冷たく笑って自慢をしてしまった。
「(略)ろくでもない三月よ、さっさと向うの国へ去ってくれていいんだぜ!」
このように大胆不敵な口をきく不実な男の声を耳にして、三月は鼻先に蠅にたかられたみたいな気がした。
すっかり腹を立てて、弟の四月の家へ走っていき、頼みこんだ。
おおわが弟の四月よ、
おまえの日数を三つほど貸してくれ
あの羊飼をこらしめてやるために
どうあっても後悔させてやるために。
イタリア民話集から、コルシカ島の民話「三月と羊飼」を。
厳しい冬を乗り切るために、月々の神に祈りを捧げていた羊飼いが、最後に油断して三月の神を怒らせてしまいます。冬は三日間だけ長引き、その間に彼は大切な羊たちを失ってしまう、という教訓譚。
「玉葉」文治元年十月八日条
玉葉巻四十三 文治元年十月
八日、天晴、和泉守行輔、進羊於大将、其毛白如葦毛、好食竹葉枇杷葉云々、又食紙云々、
日本人の固定観念のなかになぜかある、「羊が紙を食う」というイメージは、「和漢三才図会」を筆頭に、江戸時代にできたものだと思っていたのですが、あろうことか、源平合戦のころのお公家さんの日記である「玉葉」に、同じ記述がありました。
葦毛のように白く、竹や枇杷の葉が好きで、紙も食う、とのことです。食べさせてみたんでしょうか、紙。
なお、江戸期の「紙を食う」イメージについては、歌川国芳の「かみゆいどこ未」や「道外獣の雨やどり」、小野蘭山「本草網目啓蒙」、「本朝食鑑」、「江戸風俗語事典」、「誹風柳多留」などをご参考にぜひ。
ちなみに、日本でもっとも古い羊の記事としては「日本書紀」推古天皇七年が、「玉葉」と同時代には「百練抄」の羊病の噂が存在しています。
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ 「虹のある風景」
フリードリヒの絵画では自然と人間とは同一性のなかで融合するのではなく、むしろ異質な個々の存在として向き合う。
このような自然への距離感は、《虹のある風景》(1810年)にも感じ取ることができよう。
この作品は、一般にゲーテの詩、「羊飼いの嘆きの歌」(1802年)を風景画に表したものと伝えられてきた。
(略)
両者を比較してみると、描かれた対象のいくつかに共通性は見られるものの、フリードリヒの風景画とこの切ない恋の詩には本質的な違いがある。
フリードリヒの羊飼いはゲーテの詩のように悲しみとともにいわば自然の大海に沈み、自然の一部と化す存在ではなく、むしろ、眼の前に広がるリューゲン島の自然を凝視し、見る行為によって積極的な主体性を得ている。
昨日のゲーテ「羊飼いのなげきの歌」に続いて、この詩に関係が深い絵画を。同時代人であるカスパー・ダーヴィト・フリードリヒの「虹のある風景」です。
ゲーテ 「羊飼いのなげきの歌」
山の高みから
杖にもたれて
ぼくは何度
谷間を見おろしたことだろう
番犬にまかせた
羊のむれのあとから
ひとりぼくは山をおりた
ぼんやりと重たい足どりで
牧場は一面
きれいな花が咲きみだれていた
誰におくるとも知らず
ぼくは花を摘んだ
ぼくは木かげで
しぐれを避けた
むこうの家の戸がしまっている
みんなはかない夢だったのだ
家のうしろの空を
きれいな虹が彩っている
だがあの人はもういない
遠くどこかへ行ってしまった
ひろい世界へ去ってしまった
たぶん海の彼方かもしれぬ
羊たちよ 黙ってゆけ
ぼくは悲しくてならぬのだ
「西東詩集」をご紹介している、ゲーテの詩をもう一篇。「羊飼いのなげきの歌」を。
ゲーテ関連では、他に、エッカーマン「ゲーテとの対話」にあるルーベンス評及びバイロン評についてお話をしています。
ヘント祭壇画(続き)
灌木や針葉樹が繁茂し、さまざまな花が美しく咲く緑野で、神秘の子羊への礼拝が厳粛に行われている。
神の子羊の頭上に精霊の鳩があらわれ、そこから幾条もの金色の光が四方に放射して、輝かしい世界―天のエルサレムを照らし出している。
祭壇に立つ神の子羊の頭部も輝き、その胴からは聖血が聖餐杯に注いでいる。
祭壇の前部にラテン語の銘文があり、「視よ、これぞ世の罪を除く神の子羊」(ヨハネ伝一・29)とある。
(略)
下段の中央パネルは、黙示録の幻想(とりわけ五、七、二一、二二章)にもとづく描写である。
聖霊と子羊が放射する輝かしい光を受けたこの緑野は、まさに「都は日月の照すを要せず、神の栄光これを照し、子羊はその灯火なり」(二一・23)という「新しいエルサレム」の幻影である。
そして祭壇上の神の子羊を囲む聖人、殉教者、長老たちは、世界の四隅から集まって神の栄光を讃える「もろもろの国、族、民、国語」(七・9など)をあらわす。
むろん、渇いた者のための「生命の水の泉」も、黙示録の幻想に由来する。
数年前から、ファン・エイク兄弟によるヘント祭壇画のうち、下部中央パネルの「神秘の子羊」、外部パネル下段の「洗礼者ヨハネ」、内側左上角の「カインとアベル」、「神秘の子羊」の横に立つ聖女アグネスと、羊のいる部分をご紹介してきているのですが、今更ながら、フランドルの祭壇画についての解説書から、その主題についての説明を。
トロワイヨン 「羊と羊飼いのいる風景」
羊の群(他の作品では牛の群であったりもする)は画家の最も気に入りのモティーフの一つだが、この作品では荷籠を運ぶロバに乗った農夫に伴われ、道をやって来る様が描かれている。
こうした図柄を設定することで、トロワイヨンは、太陽の位置や雲の種類等によって異なる光の効果を、色々実験することができた。
この作品では、今、雲が頭上を覆っているために、農夫とロバは影の中におり、羊の何頭かが明るい陽光に照らされている。「モネ、ルノアールと印象派の風景」展カタログ
バルビゾン派を。コンスタン・トロワイヨンの「羊と羊飼いのいる風景」です。
これまでにご紹介したトロワイヨンは、こちらで。