チベット山羊
この山羊の毛の見事さにも
ジャソンがあれほど難儀して
探しまわった金羊毛にも
なんの値打ちもないほどさ、
ぞっこん僕が惚れこんだ
あの黒い毛に較べたら。
「地帯」をご紹介しているギヨーム・アポリネールの詩をもう一編。堀口大學訳、「動物詩集 又はオルフェ様の供揃え」より、「チベット山羊」を。
ご紹介したばかりの「神曲」もそうですけれど、イアソンって、あんまり英雄らしからぬ扱いを受けがちなんでしょうか。
ひつじ(ヒツジ、羊)のニュース、画像(写真)、グッズ、サイト、牧場などを紹介するひつじサイト。あなたの好きな羊もたぶん見つかります。
チベット山羊
この山羊の毛の見事さにも
ジャソンがあれほど難儀して
探しまわった金羊毛にも
なんの値打ちもないほどさ、
ぞっこん僕が惚れこんだ
あの黒い毛に較べたら。
「地帯」をご紹介しているギヨーム・アポリネールの詩をもう一編。堀口大學訳、「動物詩集 又はオルフェ様の供揃え」より、「チベット山羊」を。
ご紹介したばかりの「神曲」もそうですけれど、イアソンって、あんまり英雄らしからぬ扱いを受けがちなんでしょうか。
そこで、ダンテはその古い橋の上に立って、向かい側からこっちへやってくる群集の列を見守っていたが、彼らも同様に鞭うたれていた。
ダンテが質問するまえにヴィルジリオが説明をはじめた。
「むこうからやってくる身体の大きな者を見たまえ、彼はどんなに苦しんでも涙を流さない、なんといまだに王者の威厳をたもっているではないか。
あれはジャソーネといって、勇気と知恵でコルキス人から牡羊を奪った者だ。
(略)
かくして、彼がメデアにした裏切り行為は報復を受けたのだ。」
ダンテ・アリギエーリの「神曲」から。
「地獄篇」第十八歌で描かれる第八圏第一嚢、「婦女誘拐者の嚢」にジャソーネ(イアソン)がいるようです。イアソンが何者かについては、このあたりでどうぞ。
ダンテが私淑し案内者として登場させたヴィルジリオ(ウェルギリウス)についても、「牧歌」をご紹介しております。
父マッテオは富裕な羊毛輸出入商(カリマラ)であり、仕事のかたわら読書に専念し、著書も数冊残している。
(略)
そのなかには、わがフィオレンツァの花々しい興隆の姿が、雲の低く垂れた北の町々、ロンドンやブリュージュやリオンやリューベックなどの賑やかな風景、また梱包された羊毛、穀物袋、皮革、オリーブ油を満載したジェノヴァの船の風をはらんだ帆柱の軋りなどとともに克明に記されているのである。
いや、それだけではない。父の日記にはその日々の羊毛の取引高、手数料の変動、輸出織物の数量なども、少し右斜めにかしいだ几帳面な字体で詳細に記されている。
(略)
都門からはかたい石だたみの道を鳴らして馬車がひっきりなしに入ってきた。
もしその馬車がサン・フレディアーノ門からやってくるとすれば、それはほとんどピサを経由してジェノヴァから送られてきた羊毛の袋を満載していた。
フィレンツェの話をもう少し。
15世紀のフィレンツェを舞台にした辻邦生の歴史小説から。
羊毛を扱う富豪の家に生まれ、サンドロ・ボッティチェッリの幼友達でもあった主人公の「私」の目を通して、メディチ家による花の都の黄金時代と、サヴォナローラの台頭と破滅までが描かれます。
引用はその冒頭、すでに年老いた「私」が少年時代を回想し、その活気あふれる様と現在の荒廃とを引き比べて打ちのめされる場面です。
ボッティチェッリは、システィナ礼拝堂のモーセをご紹介しています。こちらの小説でも出て来ますよ。
モランベエの城主でリールの知事をつとめ、1427および28、9年の善公の求婚使節団に副団長格で参加してアラゴン、ポルトガルへ赴き、帰国して1430年1月10日に金羊皮騎士団員に任ぜられ、同名の頸章を受けた。「ファン・エイク全作品」
ヘント祭壇画を何度かご紹介しているファン・エイク兄弟の弟、ヤン・ファン・エイクの「ボードワン・ド・ランノワの肖像」を。
同時代の画家である、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「フィリップ善良公の肖像」やロベール・カンパンの「寄進者ヴェルルと洗礼者ヨハネ」もご参考にぜひ。
胸にさげている金羊毛騎士団勲章については、こちらでまとめてどうぞ。
だがしかし、泣き濡れているうちに、その嗚咽を
掻き消すような澄んだ音色が流れてきて、
それはどうやら、いや確かに、牧人たちの歌声を
交えつつ、森の鄙びた風笛が奏でる調べのようである。
起きあがって、音の在処へと覚束ぬ足どりで歩み寄り、
見れば白髪の老翁が一人、涼やかな木陰に座して
羊の群れの傍らで藤の小籠を編んでいる、
三人の牧童の歌と楽の音に聞き入りながら。
16世紀イタリア、トルクァート・タッソの叙事詩「エルサレム解放」から。
以前、ヴァランタン・ド・ブーローニュ「エルミニアと羊飼い」でご紹介した、異教徒の王女エルミニアが十字軍に襲われて森に逃げ込み、羊飼いたちにかくまわれる場面です。
フィレンツェ共和制の中身は商工業者の同業組合による支配であり、「アルテ」と呼ばれる組合に加入していなければ参政権はなかった。
そのアルテも大小二種に分類され、法律家、梳毛、毛織物、絹織物、商業、銀行、医薬業の七つが大アルテ、肉屋、酒屋、大工、石工、左官等十四の業種が小アルテと呼ばれる。
(略)
今やトスカーナ地方の半分以上を占める共和国領土を、フィレンツェという一都市が独裁的に支配し、そのフィレンツェの中では三千名の商工業者が権力を独占するという構図である。
ペストの惨禍から立ち直って経済成長が続く中で、その三千の特権層の中にも貧富の差が広がり、大アルテに属する富裕市民はますますその力を振るい、小アルテの権限は著しく狭められた。
先日ご紹介した「ルネッサンス巷談集」絡みで。14世紀フィレンツェの「羊毛組合と肉屋組合」の実際について、イタリア史の概説書から引いてみました。
14世紀前後のフィレンツェ関連では、これまでに、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂スペイン人礼拝堂、「ルネサンス画人伝」の「ジョット」、フラ・アンジェリコの「聖母戴冠」、ギルランダイオ「神殿から追い出されるヨアキム」、ブルネレスキとギベルティが競い合った「イサクの犠牲」などをご紹介しています。
ことにもし〈牧歌願望〉とでもいうべきものを考えるなら、それはあきらかに庭園隠棲の願望と同次元のものであったと理解すべきである。
牧場も庭も、いわゆる中間的景観として、人類にとって普遍的な快楽原則の空間たりえた。
あのクロムウェルですら、長い困難な公人としての奮闘の生活に倦み疲れたとき、つぎのように彼の〈牧歌願望〉を表現している。
「(略) こんな地位を得るよりは、森陰に住んで、羊の群を飼っていたほうが、ずっと嬉しかっただろう。」
しかしこの後にクロムウェルは、一言ドスの利いた言葉を付け加える。
「私はこれを、国家の安全のために引き受けたのだ」と。
川崎寿彦による英国庭園史から。17世紀、清教徒革命に関わる一章に、オリバー・クロムウェルの議会解散演説との註釈がついた一文が。
黒死病後の「危機の時代」の雰囲気や考え方、そして美術の特徴が最もよく表現されているのはスペイン人礼拝堂の壁画である。
礼拝堂の壁面を覆いつくすフレスコ画の数々は、たしかに圧巻だが、あまりに教義的で、気楽な気分では見ていられない。
14世紀フィレンツェ、アンドレア・ダ・フィレンツェによるサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂スペイン人礼拝堂フレスコ画の部分を。
フィレンツェと黒死病の関係については、こちらでも触れたことが。
ふゆです。
ゆきが ふりました。
まりーちゃんは
いいます、
しろい ひつじの
ぱたぽんに。
「もうすぐ くりすますよ、
わたし とっても
うれしいわ、ぱたぽん。」
冬用絵本をもう一冊。
以前ご紹介した「まりーちゃんとひつじ」のシリーズです。あいかわらずマイペースで仲良しな二人の会話が愛らしいですよ。
クリスマス絵本は、これまでに、「ラッセルとクリスマスのまほう」、ブルーナの「クリスマスって なあに」、「ひつじかいのふえ」、「クリスマスのねこ ヘンリー」、「羊飼いの四本のろうそく」、「ぐうたらサンタとはたらきもののひつじ」などをご紹介しています。
《こうして彼と愛に対する世の讃美は次第に生まれていった。
彼と仲間はどこへ行っても村やちっぽけな場所に近づけば、羊飼いは羊の群れを放り出し、先立って急いで走り、人びとに彼の到着を告げた》。
この件りはニュースや噂の伝わり方をかい間見せてくれる。
(略)
羊飼いは使者に適していた。
彼らは逞しく、辛抱強く、食料、衣服、宿に関しても欲がなかった。
地理をよく心得ていた。毎年家畜を遠路平野から山脈へ、時には山越えまでして駆り立てるさすらいの羊飼いは―南仏ではピレネー山脈越えしてカタロニアへ行ったように―道も小径も知っており、数か国語に通じていたろうし、きっと途中の人とは知り合いだったろう。
中世ヨーロッパにおける旅行者たちのありようを網羅した「中世の旅」から、12世紀の遍歴説教師聖ノルベルトの旅に関する一章を。
羊飼いは旅行者たちからあてにされる存在だったようで、ほかにも、気候に関する章では、
陸の旅人は秋になると、二、三の状況によって恵まれていると感じた。
日はまだ長く、陽気も野宿できるほど暖かだし、道も乾き、高山の道でも夏の陽ざしで雪が融けたからである。
大勢の人びとが取り入れや葡萄摘みの仕事していたし、まだ羊飼いたちも彼らの群れとともに外にいたので、道路はかなり安全だった。
との記述が見られます。
クリスマスの まえのばんです。
ケロケロくぼちは、しーんと しています。
なのに、ひとりだけ パタパタしているのは・・・
あんまり暑い日が続くので、涼を求めて、クリスマス絵本を探してきました。
以前ご紹介している「ひつじのラッセル」のシリーズです。
「賢明なる羊毛商人並びに肉屋業者諸君。
本官は諸君のこの訴訟に関してつらつら熟考致しましたところ、人類の敵が諸君、つまり兄弟のごとく睦み合うべき諸君の間に争いと喧嘩の種子を蒔く工夫をこらしたのであることを発見しました。
羊毛組合と肉屋組合とは非常に相違しているように見えますが、本来は一つのものであります。
というのはどちらの業も羊に始まるといいうるからです。
諸君の一方はその毛で、他方はその肉で生業を営んでおられる。
そこで神の敵なるものが諸君の間に、さきに述べた事件をひきおこしたのです。
(略)
この呪われたる烏こそ、その子供になぞらえて神の子羊という言葉をまで生んだもの、あの羊という動物によって生業を営むこの二つの組合の間にやってき喧嘩の種を蒔いたのです。
したがってこの訴訟は烏対羊の訴訟であると言ってよいでしょう。
14世紀フィレンツェのフランコ・サケッティによる短篇小説集から。
カラスのいたずらがきっかけになって起こった羊毛商人と肉屋組合の紛争が、裁判官の強引な判決で、ともかくも大団円をむかえるというお話。強引すぎます。
避けられぬ
だれが鳥に命じられよう
動かず 野辺にいるようにと
だれが羊に禁じられよう
毛を刈るときに もがくなと
ちぢれ毛がもしゃもしゃ生えていたら
わたしはぶざまな姿なのだろうか いや
わたしの毛をむしり取る刈手こそ
わたしにぶざまを強いるのだ
だれが制しられよう わたしが空にむかって
こころのままに歌うのを
あの女がどんなに愛してくれたか
雲たちに打ち明けるのを
ハリー叔父さんは落ち着かない様子でダイニング・ルームに座っていた。「いいかげんにしろよ、ローザ。あの子をほっといてやれないのか? わしと一緒のときはとても良い子なのに」
「あなたといるときは良い子ぶるのよ。残念ながらあの子は黒い羊(厄介者)だわ」
ラドヤード・キプリングの自伝的小説「「めえー、めえー、黒い羊さん」から。小説の冒頭に、「バァ、バァ、ブラックシープ」が掲げられています。
甘やかされて育った頑固な少年は、両親から離れてあずけられた厳格な家庭になじめず、心身に支障をきたしていきます。もてあまされた少年は、厄介者を意味する「黒い羊」と呼ばれるようになるのですが。
1566年イングランド南東部エセックスのチェルムズフォードで、三人の女性が魔女術の罪で告発され、そのうち一人が絞首刑に処せられた。これがイングランドで初めての魔女裁判であった。
(略)
エリザベス・フランシスの尋問ならびに供述。
(略)
イヴ婆さんから猫のサタンをもらうと、エリザベスはまず初めに、この(サタンという)猫にたいして、金持ちになっていろいろな物が欲しいと願った。
すると猫は願いを叶えてやろうと約束し、何が欲しいのかと尋ねた。
彼女は羊が欲しいと言った(彼女が自白しているように、猫は奇妙でこもった声で話したが、慣れればこのように聞きとれたのである)。
すると、猫はただちに彼女の牧草地に十八頭の白と黒の羊を連れてきた。
羊はしばらくの間いたが、しまいには、彼女にはわけが分からないことに、みないなくなってしまった。
「オデュッセイア」のキルケからセイラム魔女裁判まで、西洋の魔女概念の歴史が通覧できる「魔女の誕生と衰退」より、エリザベス1世治下のイングランドで行われた魔女裁判の記録を。
羊のために悪魔と取引するのはちょっと……。