18世紀フランス、これまでにいくつかご紹介しているブーシェと同時代人である、ジャン=バティスト=マリー・ピエールの「キリストの降誕」を。
キリスト降誕や羊飼いの礼拝を描いた絵画は、これまでに、ロレンツォ・ロット、ヤコポ・バッサーノ、エル・グレコ、ホアン・バウティスタ・マイーノ、ラ・トゥール、ムリーリョ、ギルランダイオのものをご紹介しています。
ジャン=バティスト=マリー・ピエール 「キリストの降誕」
六甲山牧場で羊ふれあい再開
お待たせいたしました。
7月27日(火)10:00より羊の場内への放牧を再開いたします。
また、同日より中止しておりました動物のふれあいの体験も再開いたします。
7月27日より再開するその他のイベント:
・牧羊犬による羊の追い込みショー
(ショー再開のための訓練風景の公開となる場合があります。)
・ふれあい広場での羊とのふれあい
・ヤギの搾乳体験
・ヤギの給餌体験
・ヤギの柵外展示
お客様へのお願い
来場者が牧野にお入りになる際に通過する全ての通路、園内5箇所について、消毒マットを敷き詰めるとともに、手指の消毒薬を設置しております。
原則、消毒マットを通過いただけない来場者には放牧牧場にはお入りいただけません。
来場者の皆様にはご不自由をおかけしますが、動物たちの生命を守るための措置ですので、引き続きご理解・ご協力をお願いいたします。
口蹄疫に対処するため、羊たちの隔離を行っていた六甲山牧場で放牧が再開されたとこのこと、ak様からお知らせいただきました。明るいニュースです。ありがとうございます。
じゅうぶんに気をつけて、羊たちに会いに行きましょう。
ベネデット・カスティリオーネ 「メランコリー」
17世紀イタリアのベネデット・カスティリオーネによる版画、「メランコリー」を。
獣帯の皿絵
獣帯。ペルシアの皿絵。
ローマ帝国の崩壊とともに、組織だった知識は細分化しはじめた。
この空白に入って来たのが初期キリスト教で、これは異教の諸概念、なかでも占星術を無用のものとみなした。
事実、新たな聖職者たちは、占星術における宿命論はキリストの神的介入論に直接に対立するものとし、これと争った。
「スキファノイア宮殿壁画」でふれた、西洋占星術関連のお話をもうすこし。
先日の彫刻史のお話同様、異教的なものを否定する初期キリスト教の時代に、イスラム世界において継承・発展した占星術の、その浸透の深さを示す獣帯が描かれた皿絵です。
ヨーロッパ以外の場所に存在する十二宮図は、これまでに星曼荼羅やクチャの石窟壁画をご紹介しています。
グリーティングカードとブックマーク
半年以上も前にak様から教えていただいた、ドイツのゴルノーペーパークリエーションズ社製動物グリーティングカードを、今頃見つけて買ってまいりました。
猫とかペンギンとかがそろったシリーズで、カードをひろげると立たせることができるものです。
つまり、こんな感じですが。
得も言われぬ風情です。
これで終わるのはあまりにもなんですので、もうひとつ。プラスチックの付箋です。
貼ってはがせて、白い部分に書き込みも可能。
アップと、大きさ比較用の写真を下に。
アポリネール 「地帯」
地帯
ついに君はこの古くさい世界に倦きた
羊飼いの娘 おおエッフェル塔よ 橋々の群れは今朝 羊のように鳴きわめく
ギヨーム・アポリネールの詩集『アルコール』より、「地帯」を。冒頭の二行です。
初期キリスト教美術における彫刻
四世紀から六世紀までの時代の美術は、キリスト教主題については初期キリスト教美術、異教主題については古代末期美術と呼ばれる。
初期のキリスト教神学者たちは、一般的に言って、彫像に敵意を持っていた。彫像は画像と違って現実感が強いため、一般信者たちが異教徒たちのように偶像崇拝者とならないか、懸念を抱いていたからである。
(略)
イコノクラスム(聖像破壊主義)的底流は、初期キリスト教=古代末期以降、七世紀から十一世紀までの初期中世において、モニュメンタルな石彫芸術が実質的に不在であった理由を考える際に、無論、重要な要素であるが、しかし、これだけがその原因ではなかった。
(略)
オリエントおよび蛮族(バルバロイ)の影響といった外来の要素、そして、古代末期美術の展開自体における一般的傾向、これらすべてが同じ結果をもたらすのに貢献したわけであるが、しかし、これらの要因一つ一つだけでは、到底、独立彫像の生命を危うくするのに充分ではなかったであろう。
中世ヨーロッパの彫刻美術の変遷を論じる「中世彫刻の世界」冒頭の一章を。
初期中世に長い雌伏の時代を持つヨーロッパ彫刻史を語るにあたって、初期キリスト教美術の様式の変化を示す例として「善き羊飼い」の彫像が使われています。
初期キリスト教美術の重要なモチーフである「善き羊飼い」については、こちらでまとめてぜひ。
「東京夢華録」
宣徳楼の前の役所と寺院
その通りの南は遇仙正店という酒店である。
店の表には楼閣があり、うしろに台があるので、都の人は「台上」と呼んでいる。
この店こそは第一等の酒店であって、銀瓶酒が一本七十二文、羊羔酒が一本八十一文もする。
州橋の夜市
そこから先には油揚げの羊の白腸、鮨にした乾し肉、(略)、羊の頭の削り肉、辣脚子、生姜で辛くした大根。
先日の、「中華料理の文化史」関係のお話をもう少し。南宋に後半生を過ごした人物が、北宋のころの都・開封での若き日を懐古してつづった「東京夢華録」から、都のにぎわいを描いた一節を。羊肉食、多そうですね。
羊羔酒というのは羊肉を使ったお酒、辣脚子は芥子のきいた羊の脚肉らしいです。美味しいのかな?
仁木英之 「薄妃の恋―僕僕先生」
「それでは皆さまに我らが一皿をお目にかけます」
師の声を合図に、陸桐が研ぎ澄まされて白い光を放つ包丁ですっと蓮の葉を開く。ふてくされた表情が消え、料理人の凛とした空気をまとった若者の動きは熟練の舞手のように美しい。
蓮の葉をはがした中には蒸された羊が一頭丸ごと入っており、ほくほくと湯気を立てている。
観衆のざわめきは納得のささやきに変わるが、程端と陸桐の工夫はそれだけに止まらなかった。程端が羊の腹から取り出したものは、米と香草を腹に詰めた鶏であった。
一人称はボク、外見は美少女、性格は辛辣、しかしてその正体は得体の知れない仙人さま。仁木英之の中華ファンタジー「僕僕先生」シリーズの二冊目「薄妃の恋」から、料理大会の顛末を描いた「羊羹比賽」を。「江泥羊羹」と呼ばれる料理が審査員席に出てくる場面です。
ひょっとして、これ、先日ご紹介した「没忽羊羹」が元ネタなんじゃないでしょうか。
歌川芳艶 「十二支見立」
一英斎芳艶(いちえいさいよしつや) 安政五年(1858)8月 大判錦絵
未 ― 火・鶴の上半分・琴柱に濁点「ひ・つ・じ」
(琴柱は濁点がついていなくても「じ」と読む)
江戸の浮世絵は、歌川国芳をいくつかご紹介しているのですが、こちらはその門人である歌川芳艶の十二支見立。パズルですね。
火と、鶴の「つ」と、琴柱(ことじ)の「じ」で、「ひつじ」らしいです。コツさえわかれば、意外と解ける……かも。
中華料理の文化史
羊肉の勢力拡大はいくつかの段階を経てきた。
考古学の発掘の結果によると、新石器時代の遺跡から出土した獣骨のなかで、もっとも多いのは豚、その次は羊、牛、犬となっている。
(略)
六朝になると、羊肉の方がしだいに多く食べられるようになった。
『斉民要術』に出てくる家畜類の加工および調理の用例数を見ると、一位が豚であることには変わりはない。
しかし、豚の調理例が三十七例に対し、羊は三十一例。羊肉は豚肉とほぼ互角で、三位の牛を大きく引き離している。
(略)
北方中国では「古くから羊が最上のものとされ、豚は下等品であった」と言われるが、いつからそうなったのかはこれまで明らかにされていない。
遊牧民族である匈奴族の南下はひとつの遠因であろう。
『後漢書』巻八十九「南匈奴伝」によると、紀元一世紀から二世紀のあいだ、匈奴人は数万人から数十万人の単位で南の方に入植した。魏晋以降になると、牧畜が盛んな突厥族の影響もまた大きかった。
(略)
十一世紀から十二世紀初頭にかけての中原における羊肉文化の定着にはもうひとつの重要な理由がある。
916年、中国の北部で契丹国が樹立され、約三十年後の947年に国号を遼と改めた。(略)
その間、契丹族の人たちがたえず勝者として南に進出し、彼らの風俗習慣を中原に持ち込んだ。
契丹族はもともと遊牧民で、(略)政権内には牧畜専門の役職を多数設けていた。(略)
正月一日には白い羊の骨髄の脂を糯米の飯にまぜあわせ、こぶしぐらいに丸くにぎった儀礼食がある。冬至の日には白い羊、白い馬、白い雁を殺し、その血を酒に入れる。
(略)
1114年、金が遼を破り、(略)中国の北方地域で女真族の政権が樹立した。(略)
女真族が中原に入ったとき、豚肉と羊肉はすでに地位が逆転していた。
黄河中、下流地域への移住にともない、支配民族である彼らもしだいに羊肉を多く口にした。
(略)
一方、宋が金に破れ、都を杭州に移した。
政権の転移とともに、大量の住民が北方から長江下流地域に移り住むようになった。
それにともない、羊肉を食べる習慣はさらに南下した。
南宋の都・杭州の日常生活を記録した『武林旧事』巻六「市食」には羊の脂肪でこねたニラパンや羊の血で作った料理がある。
中華料理の歴史を概観できる「中華料理の文化史」より、「羊肉vs豚肉」と題された一章を。遊牧民の食文化であった羊肉食が南進していくさまが、わかりやすく解説されています。
金や南宋の羊肉食については、「山家清供」や厨娘、女真族の全羊席などのお話をしています。
フランチェスコ・デル・コッサ 「スキファノイア宮殿壁画」
ルネサンスのイタリア宮廷文化における占星術の証例。フェッラーラのスキファノイア宮殿月暦の間にボルソ・デステが描かせた壁画。黄道十二宮から牡羊座。
予言信仰と正統信仰と占星術的判断(すなわち、占星術の一種で、その「託宣」にもとづいて行動したり選択したりする)への信仰の間に神学的矛盾があることは、明らかに証明できた。
しかし、君主はこれらの「支配の道具」を同時に用いることをやめなかった。
(略)
1450年からピエル・マリア・ロッシが建てさせたパルマ近郊のロッカビアンカ城では、通称「グリセルダ」の間の天井が、占星術的図像でおおわれている。これが城主のホロスコープ(誕生時の天球図)であるという仮説には根拠がないわけではない。説得力のある証拠はないが。
しかし、フィレンツェでは、サン=ロレンツォ教会の旧聖器室でも、サンタ=クローチェ教会のパッツィ家礼拝堂でも、クーポラの内部装飾に星々と惑星が描かれている。これらの配置は、ある時刻の十二星座をきわめて精確に再現している。
同様に、ローマではファルネジーナ荘のガラテアの間の天井が、1466年12月1日の星の配置を再現している。これは、この居館を建てさせたシエナ人の銀行家で文芸保護者のアゴスティーノ・キージの誕生日である。
15世紀イタリアのフランチェスコ・デル・コッサによるスキファノイア宮殿のフレスコ画から。
引用は、ルネサンス宮廷文化の解説書から、中世以上に強まった現象としての占星術信仰について書かれた一文を。
メ?探偵コショタン、着ぐるみになって活躍中
「古書業界の一番星になりたいんや!」
おいしそうな焼肉屋さん。コショタンは羊なので一安心。
大阪古書組合シンボルキャラクターの「メ?探偵コショタン」が着ぐるみデビューを果たしたとのこと、もりもとさんから続報をいただきました。ありがとうございます。
先週大阪古書会館にて行われたOKK古書ブックフェアにて、本を物色していたようです。なに買ったんでしょう。あと、焼き肉屋さんの前でなにか不穏なことを言ってますが。
法隆寺所蔵 星曼荼羅
「国宝法隆寺展」カタログ
先日ご紹介した星曼荼羅の、法隆寺蔵のものを。四重になった円の、第三重に十二宮が。
トーマス・マン 「ヨセフとその兄弟」
イサクは衰弱し、死んだ。
高齢のために目がみえなくなっていたが、代々伝えられてきたイサクという名前をもつその老人、アブラハムの息子は、臨終のおごそかな時に、ヤコブや居合わせていた一同の面前で、「自分」のことを高い恐ろしい声で、予言者のように、頭が変になったように、受け容れられなかった犠牲の仔羊のことを話すように語り、牡羊の血を自身の血、真正な息子の血と考えるべきであって、万人の罪をあがなうために流された血であると語った。
それどころではない、イサクは息を引き取る直前に、不思議な巧妙さで牡羊のように鳴こうとした。と同時に血の気のひいた顔が驚くほど牡羊の顔に似てきた。―むしろいままでも存在していた類似性にひとはいま急に気づいたというほうがいいかもしれない―、一同は愕然とし、あわててひれ伏したが、間に合わなくて、イサクの顔が羊の顔になるのがみえてしまった。
トーマス・マンによる、聖書に材を取った長大な小説「ヨセフとその兄弟」より、第一部のヤコブ物語の一節を。
旧約聖書創世記における、「イサクは年老い、日満ちて息絶え、死んで、その民に加えられた。その子エサウとヤコブとは、これを葬った。」という記述に対応する場面ですが、だと思うんですが、ほんとに同じ場面なんでしょうか、これは。
イサクについては、「イサクの犠牲」テーマの絵画などをいろいろご紹介しておりますので、こちらでまとめてぜひ。創世記の対応部分は、こちらで。
小説のタイトルであるヨセフと兄弟については、ラファエッロの「兄たちに夢の話をするヨセフ」をご紹介しています。