「青いナムジル」

ひつじグッズ

「青いナムジル」
ナムジルは、内気な子どもでした。めったに口もききません。
けれども、馬や羊とは、兄弟のようになかよくできました。

モンゴルの馬頭琴伝説をもとにしてつくられた絵本です。寮美千子・文、篠崎正喜・画、バー・ボルドー・考証。
青空のような心を持った羊飼いナムジルの、悲恋の物語です。

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ロシア民話 「動物たちの冬ごもり」

ひつじ話

動物たちは道を歩きながらこんなことを話しあった。
「仲間の諸君、どうしよう。冷たい季節がやってくる。どこで暖かい場所を探そうか」
牛はこう言った。
「みんなで小屋を作ろう。さもないと冬になってこごえてしまうから」
羊は言った。
「ぼくは暖かい外套を着てるんだ。ほら、こんなにもくもくしている。このままで冬を越せるよ」
(略)
やがて冷たい冬がやってきて、寒さが身にしみるようになった。
羊はがまんできなくなって、牛のところへやってきた。
「中へ入れて、暖まらせておくれ」
「だめだよ、羊くん。きみは暖かい外套を着てるんだ。そのまま冬を越したまえ。中へは入れてあげないよ」
「入れてくれないなら、ぼくは小屋のまわりをぐるぐる走って、小屋の丸太をつきくずしてしまうからね。」

アファナーシェフ編纂の「ロシア民話集」より、「動物たちの冬ごもり」を。
こんなにわがまま放題の羊ですが、じつはこのあと、彼らを狙う熊と狼と狐を相手に大活躍をするのです。なかなか痛快。

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愛知県美術館 「大ローマ展」

ひつじ話

愛知県美術館で3月22日(月・振休)まで開催中の「大ローマ展 古代ローマ帝国の遺産 栄光の都ローマと悲劇の街ポンペイ」に行って参りました。
あと一週間で終わる展覧会の情報を出してどうするって感じなのですが。
でもこれが。この「ユピテル・アモンの竿秤」のおもりが、たいへん可愛らしいので。
手の中におさまるサイズの神様の頭が、竿秤のおもりとしてさがっているのです。これで商売の信用度が変わったりするんでしょうか。

「ユピテル・アモンの竿秤」
竿秤の一方の腕には目盛りがついており、ユピテル・アモンの頭部をかたどった平衡錘が通してある。
もう一方の短いほうの腕には鈎がついており、そこから4本の鎖で皿が吊るしてある。
商品の重さは、1から10までの目盛りで量れるようになっていた。

 「大ローマ展」カタログ 

ユピテル・アモン(アメン)に関しては、リシマコス銀貨のアレクサンダー大王などをご参考にどうぞ。
「大ローマ展」は、このあと、
2010年4月10日(土)?6月13日(日) 青森県立美術館
2010年7月3日(土)?8月22日(日) 北海道立近代美術館
に、巡回が予定されているとのことです。お近くならば、ぜひ。

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牧畜民と農耕民との対立

ひつじ話

旧約聖書にカインとアベルの物語がある。
(略)この二人の兄弟の争いは、カインによって象徴される農民と、アベルによって象徴される遊牧民との対立を表すものといえる。
(略)
農民は土地で生活しているわけだから、土地に対する所有意識がきわめて鋭敏である。
(略)しかしその点牧畜民は鈍感であって、自分の家畜の大群を引きつれて、平気で農民の所有地を横ぎるようなことをしたのである。
遊牧民の飼養する動物の代表を羊とすれば、定着農民の飼養する動物の代表は豚だといえる。
(略)遊牧民と定着民のあいだにはぬきがたい対立感、憎悪感が存在する。
したがってそこから一方が他方のシンボルを嫌悪し軽蔑するという結果が生れる。
そしてユダヤ教徒、イスラム教徒が豚を不浄視して食べないのは実は彼らがもともと遊牧民だったからだといえるのである。

動物イメージを手がかりに西欧思想を解説する「思想としての動物と植物」から。
カインとアベルについては、「アベルの死の哀悼」ヘント祭壇画(部分)をご参考にどうぞ。

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スペイン移牧祭りの由来

ひつじ話

中世カスティーリャ王国の主要輸出品目であった羊毛は、新鮮で良質な牧草を求めてカスティーリャ王国を長距離移動する牧羊業者によって生産された。
こうした移動性牧羊業が本格化するのは、レコンキスタ運動によりエストレマドゥーラ地方(スペイン中西部)とアンダルシーア地方(スペイン南部)の放牧地が確保された十三世紀後半以降である。
1273年にアルフォンソ10世が長距離移牧業者の全国組織メスタ(移動性牧羊業者組合)を認可ないし追認し、長距離移牧に関する特権や裁判権を付与したことは、移動性牧羊業の発展を裏づけるものであろう。
(略)
通常、牧羊群は夏期放牧地で焼き印と交配を済ませた後、九月に新鮮な牧草を求めて北部スペインを出発した。
20―30日かけて400―1000キロメートル離れた、スペイン中部や南部の冬季放牧地に到着し、そこで新鮮な牧草を与えながら子羊を出産させ、翌年の四月に北部スペインへ戻る。
その途中で剪毛するというのが、通常の移動サイクルであった。

以前、マドリードの街中を行進する羊たちのニュースをご紹介したことがあるのですが、その由来について調べてみました。ほんとに八百年来の伝統なのですね。

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中世ヨーロッパの修道服

ひつじ話

ベネディクト修道会は六世紀に聖ベネディクトによって創設された西ヨーロッパ最古の修道会である。
世俗の財産の一切を拒否し、労働と祈りの二つを掟とする厳しい戒律にしたがい、僧は共同生活を送る、
彼らの黒衣の様子は、映画化されたウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を思い起こせばよいのかもしれない。
(略)
清貧と簡素を主張する修道服は黒く染めた布というより、本来は黒い羊の毛を織っただけの粗末な未染色の布だったからである。
(略)
中世では、ベネディクト会修道士を「黒僧」と呼んだのに対し、フランチェスコ会修道士は「灰僧」の名で呼ばれ、すなわち修道服が灰色を帯びていた。
とはいえ基本的には未染色のウール地であるから、現実には白に近いものから褐色がかったものまでヴァリエーションがあり、それぞれの修道服の色を厳密に分けることは不可能である。
(略)
シトー修道会は白い修道服によって「白僧」と呼ばれたが、実際の衣の色はフランチェスコ会修道服と見まがうものもあったにちがいない。
僧服の色は各修道士を区別する記号となったが、多分に観念的なものである。

中世ヨーロッパの色彩感覚について語られた「色で読む中世ヨーロッパ」より、修道士の清貧を示す、未染色ウール地の修道服に関する一章を。

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ベビーラッシュの季節です。

ひつじを見にいく

ak様から、三月なのでヒツジの赤ちゃんの情報をと、北海道はえこりん村子羊記事をお知らせいただきました。
ああっ。たしかにいつのまにかそんな季節です。油断してました。
というわけで、全国の大きな観光牧場HPをめぐって、子羊誕生情報を探して参りました。

子羊のこどもたちが元気に羊舎を飛び回っています
残念ながら 生まれたばかりの赤ちゃんですので
寒いこの時期にはまだお客様にお見せできません
ごめんなさい…
お客様に公開できるまで
もうちょっと待っていてくださいね

今年も赤ちゃん羊が生まれました。
羊館飼育見学棟に会いに来てね!
子羊誕生シーズンは3月中旬頃まで。
※羊館の開館時間  9:00?16:00
70頭のお母さん羊から、合わせて約100頭の赤ちゃんが生まれる見込みです。
ぜひ、羊館飼育見学棟へ会いにいらしてくださいね!

今年初めの赤ちゃんが生まれたのは2月4日。
顔の白いコリデール種でした。
赤ちゃん羊は「ひつじの牧場」にある『ファミリーシープハウス』で誕生します。
運がよければ実際の出産に立ち会えるかも!?
  ●期  間● 4/11(日)まで
  ●時  間● 10:00?16:00
  ●場  所● ひつじの牧場『ファミリーシープハウス』

六甲山牧場のシンボルである羊の出産が、今年もほぼ予定通り2月20日から始まりました。昨年は2月14日から5月13日にかけて、総数122頭(オス58頭、メス64頭)が生まれました。今年もいよいよ出産シーズンに入り、今後ベビーラッシュが続きます。
◆出産からの様子 ◆
平成22年2月20日(土)昼過ぎ、「羊の赤ちゃんが生まれている」との来場者からの連絡で、飼育担当者が駆けつけ羊の親子を見つけました。直ちに母親と一緒に産室へ移動させました。母親は子供のぬれた体をなめたり、面倒を良く見て可愛がっています。なお、子どもはメスで体重が3,500gありました。
◆今後の予定 ◆
子供は順調に育てば4週間程度で、母親と一緒に放牧する予定です。
2/27現在、母羊22頭、子羊はメス17頭、オス12頭です。
これからゴールデンウィーク明け迄出産が続き、100頭ほどの新しい命が誕生する予定です。

どちらのHPでも、かわいい子たちが群れている写真が山ほど見られます。ああ、でもやっぱり現物を見に行かなければ。

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「炭焼きと黄金の羊」

ひつじ話

炭焼きは、何日も世界をさまよい、とうとう大きな町にたどり着きました。
そこには金持ちの王さまが住んでいて、とても忠実な、金色の毛の羊をたくさん飼っておりました。
でも、だれひとり牧場で、羊たちの番をすることはできませんでした。
というのも羊たちは、いつも逃げ出したからです。
王さまは雇った羊飼いのみんなに、こういいました。
「黄金の羊たちが牧場から家へ逃げ帰ってこなかったら、わしの娘を妻にやる。
わしには姫が三人おるが、ひとりを妻に選んでやろう。
それから羊飼いをわしと同じく王にしてやる。
ただしだ、羊たちが家へ逃げ帰ってきたら、縛り首にしてしまうぞ!」

ジプシーの伝説集から、メルヘン「炭焼きと黄金の羊」を。放浪する炭焼きの若者が王さまの羊飼いとなり、幸せをつかむまでのお話。

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テル・ムーレン 「牧羊」

ひつじ話

「牧羊」
テル・ムーレン,フランス・ピーテル (1843―1927)
オランダの風景画家、動物画家。
(略)
羊の群れや羊飼い等、羊をテーマにコローを想わせる銀灰色を主調とする微妙な色の諧調と比較的流動的な筆致を用いて描いた。

「松方コレクション展 ―いま甦る夢の美術館―」カタログ

19世紀オランダのテル・ムーレンによる「牧羊」を。空気にとけ込むような羊たち。

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火坂雅志 「羊羹合戦」

ひつじ話

「論より証拠、まずは実物を食してみるがよい」
と言うと、兼続はかるく両手を打ち鳴らした。
それを待っていたかのように、襖が開き、控えの間にいた前髪姿の小姓が、黒漆塗りに螺鈿を散らした四方盆をささげ持って部屋にあらわれる。
目の前に置かれた菓子を一目見て、
「これは羊羹ではございませぬな」
庄九郎は声を上げた。
(略)
そもそも羊羹は菓子ではない。
はるか天平のむかし、唐の国から渡来した料理の一種で、羊の肉をこねかためて汁に浮かべたものだった。
わが国では仏教の影響で肉食を避けたため、肉のかわりに小豆、山芋、小麦粉、葛粉をこねて蒸し、汁に浮かべるようになった。
のちに、その蒸し物を汁に入れずに食べるようになったのが、菓子としての羊羹のはじまりである。
ただし、それは今日、われわれが一般に羊羹と呼ぶ、“練り羊羹”ではない。
小豆の餡に小麦粉、浮き粉を加えて蒸し固めた素朴な“蒸し羊羹”であった。
“練り羊羹”が発明されたのは桃山時代、金賦りのあとの茶会で、秀吉が披露したのがはじまりだった。
庄九郎の目の前に置かれているのは、まさにその、わが国最初の“練り羊羹”にほかならない。

昨日に続いて、羊羹話を。火坂雅志の短篇、「羊羹合戦」です。
時は天正十七年。関白秀吉から下されたものを参考によりすぐれた羊羹を作ることを命じられた、上杉家家臣庄九郎の孤独な闘い。現在につづく練り羊羹が確立しつつある、当時のさまが描写されています。

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羊羹の歴史

ひつじ話

鎌倉新仏教、なかでも禅宗は和菓子のみならず、日本の食文化の発展にとって実に大きな役割を果たしています。
禅宗は中国(宋)へ留学した僧侶等によってもたらされましたが、同時に教義だけでなく様々な文化や習慣も将来されました。
(略)
中国に渡った僧侶は、羊などの動物や魚を使った羮(あつもの)を見聞きし、食べもしたでしょう。
本来は魚肉食をしない禅僧ですが、信者から供養されたものは魚肉でも受けなければならなかったといいます。
その羮を日本へもたらした禅僧達、しかし本来彼らは魚肉食を禁じられていました。
寺院の中では小豆や大豆などの豆類や米・小麦をはじめとする穀物を粉にして練って、魚や羊や猪などの肉に見立てて成形した蒸物に、汁をかけて食べていました。いわゆる精進の見立て料理です。
(略)
長い間料理(点心)として扱われてきた羊羹も、戦国時代頃には菓子に衣替えしています。
室町時代、饗膳の献立などに料理としての羊羹が登場する一方、茶席の菓子として羊羹が登場します。
(略)
料理としての羊羹にしても、小豆などで作った固形物です。
この固形物が甘味を持ち、料理と共存しながら徐々に独立して、菓子に変化したのでしょう。

もともとは羊肉のスープだった羊羹が、なにがどうなってあの甘いお菓子になったのか。そのあたりの事情がよくわかる解説本がありました。
中途を抜かせば驚くような変化でも、歴史を知ればなるほどと…………思えるような、やっぱりよくわからないような。

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肉の序列

ひつじ話

ルネサンス期イタリアの教養人は、万物は土・空気・火・水から成り立ち、「存在の偉大なる連鎖」にしたがって構成されていると信じていた。
(略)
植物や生き物はひとつひとつ細かく序列化され、同じ階級に属するものはなかった。
(略)
存在の偉大な連鎖では、イルカと鳥の間に陸の生き物がいる。
陸の生き物のなかでは豚がもっとも下等で、羊は中間、牛(特に子牛)がもっとも高等だった。
食肉としていちばん高貴なのは空を飛ぶ鳥だ。

ルネサンス期イタリアの食文化について語る「ルネサンス 料理の饗宴」から、当時の食肉に対する考え方についての一章を。ちなみにもっとも下等な動物は水底の貝類らしいです。羊は、陸海空合わせても、ほぼ中間ということでしょうか。

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夢枕獏 「陰陽師 鏡童子」

ひつじ話

「おれに乗ってゆくかね」
と馬が現れる。
「おいでなされませ」
と寄ってきたのは羊である。
「こちらですよ、こちらですよ」
せわしく猿が声をかけてくる。
(略)
その女を中心にして、周囲を、先ほどの鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鳥、犬、猪が囲んでいる。

夢枕獏、「陰陽師」シリーズの新刊から。方違えに失敗し、闇にとらわれた副主人公(いや、主人公かも)源博雅に、声をかけてきたものは。

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司馬炎の羊車

ひつじ話

統一は成った。だが、人びとはまだ半信半疑であった。
呉を降したとき、晋の武帝司馬炎がまっさきに命じたのは、
「江南には美女が多いときく。五千の美女を選んで、我が後宮にいれよ」ということだった。
晋の武帝司馬炎の後宮は、美女の数がついに一万を超えた。
その一人一人の顔などおぼえられるわけはない。
(略)
彼はこの問題を、いかにも不精者らしく解決した。
後宮のなかを、彼は羊のひく車に乗って行く。
女たちはそれぞれ個室をもっている。
羊がとまったところで降りて、その部屋にはいることにしたのである。
皇帝の寵愛を得ようとした、頭の良い女性が、自分の部屋の戸に竹の葉をさし、部屋のまえの地面に塩をまいたのである。
竹の葉や塩は、羊の好物だったので、かならずそこで車はとまった。
水商売の店のまえに塩を盛る習慣は、このエピソードに由来する。

陳舜臣十八史略「小説十八史略」から、司馬炎のエピソードを。

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聖ベッソ信仰

ひつじ話

イタリア北西部の山間で、村人たちに信仰されている聖ベッソという聖者があります。
今世紀の初めR・エルツが親しく調査して、ほんの少し有名になりました。
(略)
聖ベッソの功徳は山の民の全生活領域に及びます。
住民の病気はもとより、家畜の疾病、魔女の呪いに効果があるほか、兵役除けに効験がある。
(略)
この種の加護は「地理的に明確な一点」、「聖ベッソの山」から発します。
標高2047メートルの山岳放牧地に高さ約30メートルに達する岩塊の露頭があって、そこに十字架と小さな祈祷所がある。
(略)
それなら、聖ベッソの来歴はどうかと申しますと、教会の公式伝説では彼はテーベ軍団の一員であったとされています。
辛うじて虐殺を免れた兵士ベッソはこの山国に来て伝道した。
牧童たちが主人の羊を焙っているのを見つけ、盗みの罪を説いたところ、立腹した牧童たちは彼を岩塊から突き落とした。
(略)
エルツがコーニュで採集した、公式伝説から一番離れた話はこうなっています。
ベッソは羊飼いの若者で、常に人里離れた山の放牧場にいて、神に祈りを捧げていた。
羊は彼の囲りに群れて、しかも丸々と肥っていた。
これを妬んだ邪悪な牧童が崖から突き落して殺した。
(略)
彼はさらに進んで、そもそもの源流は「聖ベッソの山」の岩石信仰だったのではないかと推測しました。
今でも年祭の岩めぐり行列は岩塊の神聖な性格を示しているというのであります。
住民の生活の源泉たる山地放牧場と、その上に屹立する巨大な岩塊。そして、よく肥って柔順な羊に囲まれた若者は、山の民のつつましい理想の体現だと言っています。

中世ヨーロッパの民衆の心性について考察がなされた「中世の奇蹟と幻想」から、羊飼いに縁があると思われる聖人のエピソードを。

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