大黒屋光太夫と羅紗の関係。
『御府内備考』(文政12年)によれば、当時、光太夫の居宅がおかれた江戸の御薬園は九段坂脇、一番町御堀端に三ヵ所、三番町に二ヵ所、蛙ヶ原の七ヵ所にあった。
そのうち六ヵ所は火災で焼失したのを契機にして、一時は御勘定奉行持から御普請奉行持の火除植物場となり、さらに寛政七年四月十九日に奥医師渋江長伯支配の御預かり地となった。
そして、同書には「寛政六年六月十七日より、蝦夷帰り人幸太夫・磯吉といふ二人を御堀端付の御薬園中に移されて御扶助あり。又同所にて羅紗の織立等をもなさしめらるといふ」という興味ある事実が記載されている。
羅紗は羊毛でつくられた厚手の毛織物であり、光太夫たちは帰国のときに羅紗を素材にした、ロシアの外套らしき洋服をもち帰っている。
以前、漂流民大黒屋光太夫からの聞き取りによるロシア見聞記「北槎聞略」をご紹介いたしました。
この「北槎聞略」を著した桂川甫周の人となりなどを語る「桂川家の世界」を読んでおりましたら、光太夫らが羅紗の製法を持ち帰った可能性について示唆する一文がありました。
江戸の薬園のヒツジ飼育については、「羊蹄記」や「資料 日本動物史」、島田元旦「黄初平図」絡みのエピソードなどをご紹介しています。
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