正倉院宝物 白石鎮子(続き)
このように、二体の動物が絡み合う文様は、「動物闘争文」や「動物咬噛文」と呼ばれる。
その起源については諸説あるが、紀元前七世紀頃より黒海沿岸の草原地帯を中心に活躍した遊牧騎馬民族が好んで用いた意匠とされる。
この意匠が表された遺物は広範にわたって出土しており、南ロシア一帯からアルタイ、シベリアにかけての内陸ユーラシア全域の、いわゆるスキタイ文化圏を中心に、西はドナウ川流域、東は朝鮮半島にまで及んでいる。
時代の降ったササン朝ペルシアの工芸品にも、この「動物闘争文」が取り入れられ、銀製の皿などに表されたものが見える。
(略)
なお、この宝物の名称は、明治期に行われた整理に際し、『国家珍宝帳』に「白石鎮子十六個 師(獅)子形八 牛形六 勉(兎)形二」と記されるものに比定され、命名された。
しかし、その記載品は嵯峨天皇の弘仁五年(八一四)に屏風三六帖とともに宝庫から出蔵された記録が残っている。
また、『国家珍宝帳』の注記の内容は本品を指すものとは考えがたい。
したがって、現在では別物であるという見方が有力となっており、「白石板」と呼び表す場合がある。
先月、奈良国立博物館の正倉院展に出陳されていた「白石鎮子(はくせきのちんす)」について、詳しい解説のされている本を見かけましたので、改めてもう少し。
こうしてみると、長い年月の間に混乱も多く起きているのですね。
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